年配の女性であり今は祖母でもある私は、子育てに関する質問をよく受けます。私たち夫婦が子育てをしていた頃と時代は確実に変わり、当時用いられていたいた教育方法の多くは、現代の「専門家」と呼ばれる人々から推奨されないようになりました。若いお父さん、お母さんたちは助けと知恵を求めています。子育てに関する最新の研究や本が出される一方で、主はテモテへの手紙第二3章16-17節で時代を超えた助言を与えておられます。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」
教える
教育(discipline)の核心は、弟子として育てること(disciple)、教えること、訓練すること、何が正しくて何が間違っているかを指導し明らかにすることです。これらのことは子どもにとって必要であり、また、動画や子ども向けテレビ番組から学ぶことはできないものです。子育ては受動的な行為ではありません。お父さんとお母さんが一貫して個人的に関わり続けることが必要なのです。
『子育ては受動的な行為ではありません。お父さんとお母さんが一貫して個人的に関わり続けることが必要なのです。』
父親には、子どもを教育する非常に大きな責任があります。残念ながら、父親が子どもの教育を妻に任せきりにし、子どもが手に負えなくなり母親が疲れ切ったときに初めて関与する、というパターンをあまりにもよく見かけます。 父親は子どもに、神を恐れ、神の道に歩むことを教える必要があるのです。心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えることを子どもに教えるために、模範となり、指導する必要があります(申命記10:12)。
母親は、聖書が示し夫が最善の方針と判断した教育方法を支持し、実行する責任があります。父親の教育方針には根拠がないと決めつけたり、自分のやり方がより優れていると主張したりして母親が父親の権威を損なうことは、家族関係に非常に破壊的な影響を与えます。通常、こうした取り決めは秘密裏に行われ、子どもたちは「お父さんには言わないのよ」と指示されるのです。これが常態化すると、誰も得をしない状況になってしまいます。子どもたちは教育に関して矛盾したメッセージを受け取ります。母親は子どもたちと秘密の合意を結ぶようになり、父親の育児のパートナーではなく、敵のようになってしまうのです。
求められている行動は、明確にされるだけでなく、きちんと実行されるようにしなければなりません。ある基準を設定する場合には、それが何であるのかを子どもたちが理解できているかどうかを確かめる必要があります。 「お母さんは何て言った?」「お母さんがどうしてほしいかわかった?」といった確認の質問をするようにしましょう。子どもが従わない場合には、それが意図的な反抗なのか、理解不足なのか、あるいは幼く振る舞っているだけなのかを判断することが重要です。言うことを聞かない場合のすべてが意図的だとは限りません。子どもはただ幼くふざけてはしゃぎ回っているだけのこともあるのです。
戒める
子どもが適切でない行動や態度を示すとき、叱ることは重要です。叱責、戒め、注意、懲戒は、すべて聖書的な子育ての一環です。 注意していただきたいのですが、これらのいずれにも、子どもに向かって怒鳴ること、子どもを殴りつけること、子どもを侮辱すること、悪口を浴びせることなどは含まれていません。叱るということはまた、子どもを過剰に矯正することでもありません。そうすれば、子どもの心に恨みの気持ちを生むことにつながってしまいます(エペソ6:4; コロサイ3:21)。
『子どもに「やめなさい」と言うだけでは不十分です。…心が取り扱われない場合、親は、外見上は義を実践してはいても心は暗闇である、パリサイ人のような人を生み出すリスクを犯してしまうのです。』
子どもを叱るとは、彼らに自分の言動について責任を持つよう求めることを意味します。 聖書の基準を思い起こさせ、その基準に達していない部分を示すのです。これがエペソ人への手紙4章22-24節の言う「脱ぎ捨てる」ということです。実際に結果が現れるためには、これらの基準が家庭における日常生活の一部として教えられ、全員によって守られなければなりません。ほとんどの子どもはまだ十分な知恵を備えていなくても、特に親の言うこととやることが一致していないのを見て取ることに関しては、幼い頃からかなり判断力があるものです。
子どもに常に責任を取らせることは確かに疲れるものです。今日はひたすら叱ってばかりだ、と思われる日もあるでしょう。しかし、本当にそうだとすれば、それは有意義な時間でもあるのです。
矯正する
子どもが義の道から外れた場合には、きちんと矯正される必要があります。聖書的な矯正とは、上に引用したエペソ人への手紙4章の「着る」という側面を伝えることです。子どもに「やめなさい」と言うだけでは不十分です。親は時間をかけて、罪深い行動や不従順な行動の背後にある心の部分を子どもが理解することができるように助ける必要があります。 心が取り扱われない場合、親は、外見上は義を実践してはいても心は暗闇である、パリサイ人のような人を生み出すリスクを犯してしまうのです(マタイ15:8)。
矯正にはしばしば身体的・物理的な要素も含まれます。場合によってはむちを用いること(箴言13:24; 22:15)や、楽しみを取り上げることも含まれます。ただし、身体的・物理的要素が矯正に用いられる唯一の方法となってしまっていることがよくあります。私は、これは親の側の重大な間違いであると主張したいのです。なぜならその場合、聖書に基づいた教育の機会が失われ、教育ではなく「罰」となってしまうからです。聖書的な教育には、上の要素すべてが含まれるのです。
『失望せずに善を行いましょう。時が来ればきっと、子どものうちに美しい実が結ばれるのを目にすることになるのです。』
義の訓練
教育のプロセスの最終段階は、義の訓練です。これはすなわち、正しい行動について体系的な訓練を施すことです(エペソ6:4)。しっかりとした訓練を与えるためにはしばしば、変えられるプロセスとは実際どのようなものなのかを子どもが学び、学んだことを実践し始めていくにあたり、その過程で繰り返される不適切な行動に忍耐する姿勢が必要です(ヘブル12:15)。新生している子どもであれば、これはキリストの似姿に変えられる聖化の過程になります。新生していない子どもの場合には、心のレベルで変わることができないという葛藤が、救いの必要について話す機会となるでしょう。
子育ての目標は、「すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた」子どもを育てること、つまり、キリストのために世界に良い影響を与えることのできる誠実で、立派な人となるように子どもを育てることです。失望せずに善を行いましょう。時が来ればきっと、子どものうちに美しい実が結ばれるのを目にすることになるのです。
This article has been translated and used with permission from the Biblical Counseling Coalition. The original can be read here, Parenting Wisdom from God’s Word.
この記事は「Biblical Counseling Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Parenting Wisdom from God’s Word。