「御国の祈り」を祈る

私たちがよく忘れる3つの願い

ブレット・レイル(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 06月 17日  - 

私は宣教師で、チームと一緒に世界で最も福音が伝わっていない人々の間で働いています。だから常に他の人の祈りに必死に頼っています。にもかかわらず、私はよく、自分の祈りがとても自己中心的であることに気づかされます。おそらく、共感する人は他にもいるのではないでしょうか。

堕落した人間として、私たちはみな自分中心の病と闘っており、この病は祈りの生活にも浸透しています。立ち止まって祈ることさえできないこともあります。ようやく祈り始めても、私たちの心はすぐに自分の仕事、健康、人間関係、満たされていない願望のことでいっぱいになります。結果、私たちの祈りは単に自分の快適さや願望を中心にしたものとなってしまうのです。そして、罪や病気や弱さからの脅威に満ちた世界では、私たちの多くがこうした自分中心のゆえに、不安や恐れにかられています。

聖書が、祈りを神の栄光と御国の到来に向けるようにと教えていることを、私たちの多くが知っています(マタイ6:9-10)。けれども、そのような祈りからどれほどの力が得られるかは、あまり知らないでしょう。この力は私たちを偏狭な視野をもった生き方から救い出し、みこころが天で行われるように地でも行われることを願う恵みを与えてくれます。

イエスは、私たちがまず神の国を求めるなら、心配は消え、必要なものはすべて与えられると約束しました(マタイ6:33)。神の国は様々な方法で求めることができますが、祈りの中で御国の到来を求める以上に根本的なことはないのです。

「御国が来ますように」

イエスが教会のために教えた祈りの中では、6つの願いのうちの2つ目が御国の到来を求めるものでした(マタイ6:10)。イエスは優先順位の高い順に願いを並べました。ですから、神の国のために祈ることはとても重要です。私たちは自分の安らぎや幸せや日々の糧について祈っても良いのですが、神に栄光を帰し、神の国を祈り求めることなしに、自分のためにも他の人のためにも正しく祈ることはできません。

『キリストの王国が完全に確立されるためには、サタンの王国が滅びなければいけません。』

祈りによって神の国を求めるとき、創造の目的に沿った最も深い安らぎと幸せが見つかるのもまた真実です。オランダの神学者ヘルマン・ウィッツがかつて書いたように、「この王国の中に、私たちの幸福はすべてある」からです(『Sacred Dissertations on the Lord’s Prayer』、242ページ)。自分の幸せのために祈っても御国のために祈らないということはあり得ますが、御国のために祈って私たちの幸せのために祈らない、ということは不可能だということです。

私たちの祈りが神の栄光と御国の到来に向けられるとき、自分にも、他の人にも、真の慰めと幸福がもたらされます。

というのも、御国の到来を願う祈りは、世界に対して神がもっておられる栄光に満ちたご計画に私たちの心を合わせ、私たちがどんな困難に直面しようとも、みこころを成し遂げるために必要な力と方向性を与えてくれるからです。このような祈りを祈ると、私たちは直面している困難が永遠の栄光の重さに比べたら軽い一瞬の苦難であることを、より良く理解できるようになるでしょう(IIコリント4:17)。

御国を求める3つの願い

御国の到来を祈るとき、私たちはいったい何を求めているのでしょうか。ウェストミンスター小教理問答の102問の答えが、この素晴らしい要約となっています。

第二の祈願である「御国をきたらせたまえ」では、サタンの国が滅ぼされるように、また恵みの国が進展し、私たちも他の人々もそれに入れられ、その中に守られるように、そして栄光の国がすみやかに来るように祈るのである。(日本基督改革派教会信仰規準翻訳委員訳)

この一つひとつについて、さらに考えましょう。

1. サタンの国が滅ぼされるように

まず、サタンの国が滅ぼされるように祈ります。ここで私たちは、自分が「もうすでに、でもまだ」の王国に生きていることを認めます。罪とサタンに対して決定的な勝利をおさめたイエスは天で万物を支配しています。しかし、サタンはいまだに空中の権威を持つ支配者であり(エペソ2:2)、だれかを食い尽くそうと探し回る吼えたける獅子です(Iペテロ5:8)。そして「信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにして」います(IIコリント4:4)。キリストの王国が完全に確立されるためには、サタンの王国が滅びなければいけません。「御国が来ますように」と祈ることは、キリストの正当な支配に忠誠を示す行為であり、サタンの独裁に対する勇気ある抵抗の行為なのです。

『ですから「御国が来ますように」と祈ることは、教会があらゆる国で、とりわけ多数の地域教会の働きによって、力強く前進していくように神に求めることなのです。』

御国の到来とサタンの国の崩壊が、福音の届いていない人々への宣教に与える意味を考えましょう。世界で福音の届いていない地域に福音が届いていないのは、霊的に言えば、そこがサタンの牙城だからです。それは、そこに住んでいる人々が私たちよりも罪深いからではなく、その地域に様々な形で福音宣教に対する強力で根深い霊的な抵抗があるからです。私の故郷の牧師の表現を借りれば、こうした地域には「サタンが深く食い込んでいる」ということです。こうした地域では忠実に福音を宣べ伝えても、何の実りもないように思われることが多いのです。

マルコの福音書9章14-29節はまさに「サタンが深く食い込んでいる」状況で、弟子たちが悪霊を追い出すことのできなかった場面にイエスが遭遇しました。イエスは弟子たちを優しく諭し、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」と言いました。世界でまだ福音の届いていない地域は、「この種のもの」で満ちている地域です。マーティン・ロイドジョンズはこの箇所でのイエスの発言を次のように解説しています。「あそこであなたたちは失敗しました。……力不足だったからです。……神だけが与えることのできる力を求めない限り、『この種のもの』に対処することはできないのですよ」(『Revival』、18-19ページ)。

福音の届いていない人々に福音が届くことを望むなら、サタンの国が滅ぼされ、神の国が確立されるように、不遜なまでのしつこさをもって祈る必要があるのです(ルカ11:5-13; 18:1-8)。

2. 恵みの国が進展するように

第二に、恵みの国が進展するように祈ります。恵みの国とは、教会において私たちがすでに楽しんでいるキリストの国のことです。キリストが支配する「この世のものではない国」であり(ヨハネ18:36)、天の御国のことです(マタイ10:7)。オランダの神学者ヴィルヘルム・ア・ブラケルが述べているように、この国は「神に栄光を帰す」ものです。それはこの国とこの国にいる人々にこそ、神がご自身の栄光を知らしめるからです(『The Christian’s Reasonable Service』、3:512)。この国の民が主イエスの御霊により栄光から栄光へと変えられていっているので、この国は輝いています(IIコリント3:18; 4:6)。ですから「御国が来ますように」と祈ることは、教会があらゆる国で、とりわけ多数の地域教会の働きによって、力強く前進していくように神に求めることなのです。

『私たちは神の不思議な摂理の中で、祈りによって御国の到来に参与するように招かれています。』

私たちは教会が聖く、暗い世界で明るく輝くように祈ります。教理の改革と愛ある一致を祈ります。御霊による聖徒の刷新と失われた人々の回心を祈ります。教会が成長し、数においても増えていくことを祈ります。ただ自分の教会の働きが成功するように祈るだけではありません。そうではなく、すべての教会によって宣べ伝えられる福音の力によって、すべての国が変えられ、恵みの国に対してよみの門が打ち勝つことがないように祈るのです(マタイ16:18)。また、私たちの家族、隣人、私たち自身、そして、敵のために祈ります。キリストのあわれみによって属することになった恵みの国の一員として、私たちはこのように祈るのです。

3. 栄光の国がすみやかに来るように

最後に、私たちは栄光の国がすみやかに来るように祈ります。イギリスのピューリタン(清教徒)であったトーマス・ワトソンは「恵みの国と栄光の国の違いは質ではなく程度の差だけである」と言いました。恵みの国が栄光の国へと成長します。栄光の国は、完全かつ最終的な終末のキリストの王国です。それは御国以上のものであり、天の御国が新しくされ、地上に降りてきた王国なのです(黙示録11:15; 21:1-3)。

ここで私たちは、私たちの主であり王であるイエスにすぐに来てくださいと祈ります(黙示録22:20)。罪や苦しみによって神の栄光が台無しにされることがないように祈ります。義と平和の王国が栄えるように願います(ヘブル7:2)。真実をもってさばきが執り行われることを願います(イザヤ42:1-4)。私たちは、いつの日かこうした祝福を完全に経験することができるように、そして、今も恵みの国を通して部分的に楽しむことができるように、神に願うのです。

ハイデルベルク信仰問答の著者の一人であるツァハリーアス・ウルジーヌスは、栄光の国を次のように描写しました。「そこには従わせるべき敵はなく、教会はキリストとともに栄光をもって君臨し、神がすべてとなられる」(『Commentary on the Heidelberg Catechism』、634ページ)。私たちはその日が来て、栄光の愛のうちに主と顔と顔を合わせて見ることを祈るのです(Iコリント13:12)。

私たちは神の不思議な摂理の中で、祈りによって御国の到来に参与するように招かれています。私たちの祈りを神の栄光と神の国に向けることは、自分の国と自分の内を見つめる下向きな祈りから私たちを救い出し、私たちの心と想像を永遠の栄光に向けて上へ上へと舞い上がらせるのです。「主よ、御国を来たらせたまえ!」

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Pray Kingdom Prayers.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Pray Kingdom Prayers