以下は、『Ask Pastor John(ジョン先生に聞く)』というポッドキャストの収録内容を文章に起こしたものです。
[トニー(ポッドキャスト進行役)]聖徒か、罪人か——クリスチャンをひとくくりに語る場合、私たちはクリスチャンをどのように呼ぶべきでしょうか? この質問は長年にわたって多くの人に取り上げられていますが、最近ではマークさんから同じ質問が届きました。今日はこの質問に答えてみましょう。以下はマークさんの文面です。
[マーク(以下、M)]「こんにちは、ジョン先生! 私は牧師として、また説教者として、神のみことばの真理を追求しています。毎週日曜日、自分の意見ではなく、私は神の真理を語るという重荷を、進んで、また大切にして背負っているつもりです。ただ神のことばだけが、聖なる神に対する罪深い反逆行為の報いから、私たちを救い出すことができると知っているからです。」
『私たちは真の意味で、キリストにあって新しく造られました。「罪人」はもはや、キリストにある私たちの本質的なアイデンティティになりません。』
[M]「この真理の光に照らすとき、最近私のうちに、神の民をひとくくりに語る場合に用いる罪人という言葉の使い方について疑問が生まれたのです。恵みのゆえに、信仰によって救われた私たちは、なおも罪人と呼ばれるべきでしょうか? それとも、聖徒という言葉を用いるほうが、より聖書的なのでしょうか? パウロは自らを「罪人のかしら」と呼んでいますし(Iテモテ1:15-16)、ヤコブは真理から迷い出た者を罪人として教会に連れ戻すことについて語っています(ヤコブ5:19-20)。しかし同時に、神の民を聖徒と呼ぶ箇所も、聖書の中には多く見受けられます。ですから、神の民をひとくくりに呼ぶ場合、基本的には聖徒と呼ぶべきか、罪人と呼ぶべきか、どちらでしょうか?
まず一点、マークさんの質問ではっきりさせておくべき部分があります。マークさんは、パウロが「私は…罪人のかしらです」と言っている箇所を引用していますが、この文脈を見ると、パウロは、クリスチャンである今、自分が罪人のかしらだと言っているのではないと思います。おそらくここでは、「神が私を救ったとき、私は罪人のかしらだった」という意味で言ったのでしょう。テモテへの手紙第一1章13節で「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした」と説明していることからもわかります。彼は今は、そのような人物ではありません。
罪のないクリスチャンはいない
しかし、「私はその罪人のかしらです」(Iテモテ1:15)が現在形であることにも注意を向けなければなりません。これは「以前の自分の生き方を考えると、私はあらゆる人々の中で、最も救いを受けるに値しない者であることに今も変わりはない」という意味だと私は考えます。しかしそれは、パウロが今現在も罪人のかしらとして生きているという意味にはならないでしょう。
しかし、マークさんがヤコブの手紙5章19-20節を取り上げたことに関しては、その通りです。ヤコブは確かに、信仰から離れたクリスチャンを罪人と呼んでいます。「私の兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて(あなたがたとは、クリスチャンのことです)、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。」 つまり、マークさんの指摘する通りですね。ヤコブは、罪人という言葉をクリスチャンに向けて使っています。
『罪人と呼ぶとそれが深いアイデンティティとして刻まれる印象を与え、それは真実に反するです。』
そしてもちろん、ヨハネの手紙第一1章8-10節からも明らかです。この人生において、罪を犯さないクリスチャンなどは存在しないのです。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」
さらに、ローマ人への手紙7章でも、パウロは自分自身について、クリスチャンでありながら自分が憎んでいることを行っていると述べています(ローマ7:15)。イエスはまた、日ごとにこう祈りなさいと教えられました。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタイ6:12)。ここで私が日ごとにと言ったのは、主の祈りの中でこの箇所の一つ前の祈りが、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」であるからです(マタイ6:11)。私たちには日ごとの糧が必要であり、また日ごとの赦しが必要なのです。
したがって、この人生において、罪のないクリスチャンなどという存在はあり得ません。マークさんの言う通りでしょう。では、もうここで終わるべきでしょうか? 「どうぞ、答えにたどり着きました。クリスチャンは罪人と呼ばれるべきです。私たちは今もなお、罪人ですから。」 マークさんはこう質問しましたね。「恵みによって、信仰によって救われた私たちは、なおも罪人と呼ばれるべきでしょうか?」 答えは、「はい」です。さあ、答えが出ましたから、トニーさん、次の質問へ進みましょうか。……いえいえ、ここで終わるわけにはいきませんよね。ここで終わってはいけないのです。これでは、この問題の核心に迫らないままになってしまいます。
罪人「だった」私たち
パウロはクリスチャンを聖徒と呼んでいます。聖徒とは、聖なる者、きよめられた者、聖別された者、聖とされた者、救われた者、神のために聖別された者、光の中を歩む者を意味します。パウロ書簡において、クリスチャンは40回も聖徒と呼ばれていますが、罪人という名詞はクリスチャンを説明する目的では事実上ほとんど使われていません。1、2回は使われているのでは、と思われる方もいるでしょうが、おそらくない、と私は考えます。どちらにせよ、40対ほぼゼロです。どうしてでしょうか? これこそが、マークさんの質問の根底にある疑問だと思います。問題はここなのです。私たちはみな罪を犯すのにも関わらず、なぜこの呼び名になるのでしょうか?
『私たちには日ごとの糧が必要であり、また日ごとの赦しが必要なのです。』
事実、ローマ人への手紙5章8節でパウロはこう言っています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」 この意味は何でしょうか。「私たちがまだ罪人であったとき」とは? これはつまり、パウロの「罪人」に対する理解が、今の私たちには当てはまらないということです。それがこの意味です。マークさんの心を動かしているのも、この点です。だからこそ、彼の質問はとても適切で、かつ重要なのです。
ここで、気をつけなければなりません。しっかりと考える必要があります。表面的な見解だけで、「聖書には、私たちはいつでも罪を犯すと書いてあるじゃないか。罪を犯す人は罪人なんだから、クリスチャンは罪人と呼ばれるべきだ」という結論に至ってはいけないのです。そんな単純な問題ではありません。理由は二つあります。第一に、人は罪を犯すと言うことと、その人を罪人と呼ぶことは、必ずしも同じことを指さない点です。ときどき嘘をつくからといって、あなたは自分を嘘つきだと言うでしょうか? 微妙に意味の違いがあるのが、わかるでしょうか。
古いパン種をすっかり取り除きなさい
単純な問題とは言えない第二の理由は、クリスチャンには、今までとは違う本質的なアイデンティティ、すなわち私たちは救われているというアイデンティティを得ていることです。私たちは真の意味で、キリストにあって新しく造られました。「罪人」はもはや、キリストにある私たちの本質的なアイデンティティになりません。これが、問題の核心です。
『そしてクリスチャンとして、今や私たちは罪に対抗して戦う、ということです。なぜなら、罪が無くなったからです。』
コリント人への手紙第一5章7節の、驚くべき宣言について考えてみましょう。「古いパン種をすっかり取り除きなさい」——古いイーストを取り除きなさい、とあります。パウロは罪のイラストレーションとして、この表現を用いています。「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」 ——種なしパン、とあります。つまり、私たちのためにキリストが死なれたことによって、私たちは種なしパンという、最も本質的なアイデンティティを得ました。それはすなわち、罪がない、ということです。そしてクリスチャンとしての道徳、倫理として、非常にユニークなのは、今や私たちは罪に対抗して戦う、ということです。真の意味で自分自身の罪と戦うのです。なぜなら、罪が無くなったからです。
罪はもうないのです。「古い罪をすっかり取り除きなさい。あなたがたには罪がないのですから。」 これこそ、クリスチャン人生の奥義です。あなたに罪はないのだから、古い罪をすっかり取り除く、すなわちあなたの人生における罪を殺す(ローマ8:13)、これこそあなたの本来の姿です。今もなお続く罪との戦いは、私たちがキリストのうちにある証拠です。そしてキリストのうちにあるなら、私たちは最も深い部分で、本質的なアイデンティティにおいて、罪がない状態なのです。
もう一度言いましょう。罪との戦い——嘘ではない、生きた、日々の戦い——は、証拠です。牧師は、人々の中にこの戦いがあることを見出さなければなりません。あなたがクリスチャンである証拠を捜しているのです。そしてその証拠は、あなたがキリストのうちにあることです。キリストのうちにあるなら、あなたに罪はありません。だから、罪との戦いは、あなたに罪がないことの証拠です。
神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として
コロサイ人への手紙3章9-10節で、パウロはこう述べています。「互いに偽りを言ってはいけません。」 パウロの言うとおり、偽りをやめましょう。この罪を取り除きましょう。きっぱりとやめて、告白し、悔い改めてください。またやってしまうなら、それに背を向けて離れ、そしてやめましょう。なぜでしょうか? それは「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて[古いアイデンティティ、古い自分を、脱ぎ捨てるのです——古い自分はキリストとともに十字架で死にました]、新しい人を着たのです[新しいアイデンティティ、新しい自分]。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」
『これこそあなたの本来の姿です。今もなお続く罪との戦いは、私たちがキリストのうちにある証拠です。そしてキリストのうちにあるなら、私たちは最も深い部分で、本質的なアイデンティティにおいて、罪がない状態なのです。』
あなたは古い自分を脱ぎ捨てました。つまり、罪人という本質的なアイデンティティを持つ自分を捨てたのです。あなたは、これを脱ぎ捨てました。古い自分は、キリストとともに死にました。今、あなたは新しくなりました。ですから、新しい人を着るのです。あなたの新しいアイデンティティを着てください。それは、あなたが種なしパンだから、古いパン種をすっかり取り除くということです。具体的には、パウロはこう言っているのです。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたには罪がないのです。あなたは嘘つきではないのです。だから、偽ってはいけません。罪を犯してはいけません。」 これぞクリスチャン人生における、栄光に輝く逆説(パラドックス)ではありませんか。だからこそパウロは、ほぼまったくと言っていいほど、罪人という名詞をクリスチャンに向けて使わないのだと思います。なぜなら、罪人と呼ぶとそれが深いアイデンティティとして刻まれる印象を与え、それは真実に反するからです。
パウロは、クリスチャンがなおも罪を犯す証拠を多く示しています。私たちは罪と戦い、罪を殺します(ローマ8:13)。しかし同時に、その姿が私たちの本来の姿ではないことも明らかにしています。コロサイ人への手紙3章12-13節によく耳を傾けてください。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。……互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」 これは、実にパウロらしい考え方です。あなたがたは選ばれた者、聖なる者、愛されている者です。だから、そのアイデンティティを着て、キリストの愛をもって互いに接するべきです。
聖徒たちを牧する
さあ、答えがわかったでしょうか? 牧師のみなさん、人々の羊飼いとして誠実であることを追求した結果、この質問が生まれたのでしたね。どうか、新約聖書のこの二つの現実を捉える方法を、ぜひご自分のものにしてください。
- 人々の人生における罪との戦いは続いている、という現実
- 人々の最も深い部分において、彼らには、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者というアイデンティティが与えられている、という現実
そして、(1)人々に彼ら自身がどのような者であるかを教え、(2)彼らが直面していかなければならない問題を教え、互いへの接しかたを教えましょう。これら二つの現実を踏まえて、彼らに語りかけてください。
聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会