神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
出エジプト記3章14節
「ある」であられる神?
出エジプト記3章14節にあるモーセへの神の自己啓示は、旧約聖書の中でも謎めいたみことばであり、聖書学者によって数え切れないほどの解釈がなされてきました。おそらく、「わたしは『わたしはある』という者である」という神のことばの解釈としてもっともよく知られているのは、これが神の自存性を表すとするものでしょう。究極の、創造されなかった存在であられる神は、ただ「ある」方なのです。この解釈が聖書の中間時代にまで遡ることは、七十人訳がこのフレーズを「わたしは存在する者である」と訳していることからもわかります。
『出エジプト記3章14節を理解するためにまず注目すべきは、イスラエルの民に伝える神の名をモーセが尋ねたとき、神が三部構成で答えられたことです。』
神の自存性を肯定すべきなのは確かなことですが、この聖書箇所の直接の文脈において、そのような解釈が意味を成すのか、私たちは問わなければなりません。エジプトの圧政に苦しめられていたイスラエルの民に、存在論的な神の自存性を知る必要が本当にあったのでしょうか。一連の出来事が語られる中で、神がこの局面でご自身の、どちらかと言えば哲学的な側面を啓示されるというのは、納得のいく結論でしょうか。私は違うと思います。出エジプト記をより広い文脈で捉えるなら、違う解釈へと導かれると思うのです。
三部構成の答え
出エジプト記3章14節を理解するためにまず注目すべきは、イスラエルの民に伝える神の名をモーセが尋ねたとき、神が三部構成で答えられたことです。
- 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14a)
- また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」(出エジプト3:14b)
- 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。」(出エジプト3:15)
面白いことに、最も理解しにくい「わたしは『わたしはある』という者である」というフレーズは、民に告げよと神がモーセに命じられた答えではありません。(1)の答えはモーセのためだけに与えられたように見受けられます。ということは、ここで神が伝えられたことを私たちが何と結論付けたとしても、(2)と(3)で啓示された名前だけで、どんな神かと問うイスラエルの民に対する答えとしては十分だということです。また、(2)と(3)を比べてみると、明らかに並行法で書かれていることがわかります。
『「わたしはある」という名と、「主」という名が並列の関係にあることから、両者にはある程度の互換性があることが示唆されます。』
(2)あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。
「わたしはある」という方が
私をあなたがたのところに遣わされた、と。
(3)イスラエルの子らに、こう言え。
主が
(あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である)
あなたがたのところに私を遣わされた、と。
「わたしはある」という名と、「主」という名が並列の関係にあることから、両者にはある程度の互換性があることが示唆されます。太字の「主」はヘブル語の名前「ヤハウェ(Yahweh)」の訳ですが、これは「ある」という動詞の三人称単数形と考えられています。「わたしはある」(エーイェ)という名前ではこの動詞が一人称単数形になっているわけであり、ここからも両者の互換性は裏付けられるでしょう。したがって「主」という、より一般的な名前をどのように理解するかが、「わたしはある」というより不可解な名前の意味を理解する助けとなるでしょう。そして、「わたしはある」という名前を理解すれば、それに関連する、「わたしは『わたしはある』という者である」という謎めいたフレーズの解明にも役立つはずです。
族長たちは「主」を知っていたか
上述の聖句を調べてすぐ目に飛び込んでくるのは、「主」が「あなたがたの父祖の神」と説明され、それがさらに詳しく「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と特定されている点です。これが特に興味深いのは、神がその後モーセに対して「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、主という名(ヤハウェ)では、彼らにわたしを知らせなかった」と言われることです(出エジプト6:3)。にもかかわらず、族長が登場する聖書箇所では、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、それぞれ神をその名「ヤハウェ」で呼んでいます(例: 創世記15:2; 26:25; 28:16)。これはどういうことなのでしょうか。
『民が神は「ヤハウェ」だと知るようになるというのはむしろ、民が神の真のご性質、「ヤハウェ」という名が何を意味するのかを経験するようになる、ということなのです。』
その答えは、神が特定の方法で動かれるので、民が「わたしが主であることを知る」ようになるという、出エジプト記全体を通して何度も繰り返される神の約束から明らかになります。これは、民が単に神の名は「ヤハウェ」だと知るようになる、という意味ではありません。それはもう出エジプト記の3章で明らかにされています。民が神は「ヤハウェ」だと知るようになるというのはむしろ、民が神の真のご性質、「ヤハウェ」という名が何を意味するのかを経験するようになる、ということなのです。
出エジプト記において民は、神の救いや備えを経験した時(例: 出エジプト6:7; 7:5; 8:22; 16:12; 29:46)、もしくはエジプトに対するさばきを体験した時(例: 出エジプト7:17; 10:2; 14:4, 18)に、神が「ヤハウェ」であることを知るようになります。このことは、ヤハウェという名が根本的には、ご自分の民に対する神の真実(誠実さ)と関係していることを示唆します。この意味で、族長たちは「ヤハウェ」を知りませんでした。彼らは神の名は知っていましたし、約束を受け取ってはいましたが、救いとさばきを通して約束を忠実に果たされる神の真実の全容を体験したことはなかったからです。
わたしはあなたとともにいる
このような、より広範な背景を踏まえた上で出エジプト記の3章に戻ると、この神の真実というテーマを垣間見ることができます。神はまずモーセに、自分は族長たちの神であると自己紹介されました(出エジプト3:6)。そしてイスラエルの民をカナンの地に導き上ることによって約束を果たすつもりでおられることを明かされます(出エジプト3:7-9)。神は続いてモーセに民をエジプトから導き出すように命じられます(出エジプト3:10)。モーセはこの任務に対する自分の適性を問いますが(出エジプト3:11)、神は「わたしが、あなたとともにいる(エーイェ)」と言ってモーセを励まされます(出エジプト3:12)。
『広い文脈と直近の文脈の両方を踏まえると、「わたしはある」という名と「主」という名には、ご自分の民に対する神の真実の意味があると考えられます。』
この12節で神は、出エジプト記3章14節でご自身を知らしめたのと同じ単語を使っています。「わたしはある」(エーイェ)という、「わたしはある」とも「わたしはなる」とも訳せるヘブル語の単語です。12節で神は、イスラエルを救い、エジプトをさばく器として神に仕える役目を任じられたモーセに対して、ご自分の誠実な臨在を約束して安心させているのです。広い文脈と直近の文脈の両方を踏まえると、「わたしはある」という名と「主」という名には、ご自分の民に対する神の真実の意味があると考えられます。つまり、神は彼らとともにいて、彼らを救い、彼らの敵をさばかれる、ということです。
この延長線上で考えれば、あの「わたしは『わたしはある』という者である」という謎めいたフレーズも、神のこのようなご性質を伝えている可能性が高いでしょう。ある学者はこれを最上級に理解し(「わたしはもっとも真実な者である」)、またある学者は別の文法的な立場を取って理解します(わたしはなるべきようになる [つまり、あなたとともにいる])。いずれにせよ、出エジプト記の広範の文脈と直接の文脈の両方から、神はご自分の名を明かすことにより、民に自存性を思い起こさせていたというよりは、疲弊した民の只中にご自分がおられるという神の真実を伝え、民を励まされたかったのだろうと考えられるのです。
聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会
This article was translated by permission from the original English article published by Crossway. The original can be read here, What Does Exodus 3:14 Mean?.
この記事は「Crossway」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:What Does Exodus 3:14 Mean?。