過ちを見過ごすべきか、罪を指摘すべきか

ブレイディ・グッドウィン(著者) 、郷 崇治(翻訳) - 2026年 07月 14日  - 

赦しと和解についての聖書の教えを考察する際によく扱われる質問のひとつが、「どんな場合に人の過ちを愛によって見過ごすべきで、どんな場合に相手の罪を指摘すべきですか?」というものです。

関連する聖書箇所をざっと調べてみても、必ずしも明確な答えが得られるわけではありません。ある聖句は、相手の罪を「覆う」ように、あるいは見過ごすようにと教えます(箴言19:11)。一方、人を戒め、過ちを指摘するようにと教えている箇所もあります(ルカ17:3)。一見矛盾するように見えるこれらの記述を、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか?

まず、神が私たちに対してどのように関わってくださる方であるかを考えることから始めるとよいでしょう。聖書によれば、神は私たちに対して忍耐強く、私たちの罪深さにも寛容でいてくださる方です。そのようにして神はキリストにある憐れみを私たちや他の人々に示してくださるのだと、みことばは教えています。テモテへの手紙第一1章12-14節で、使徒パウロはこの憐れみについて語っています。

『私たちは、このような方を敵として見るのではなく、家族として見て寄り添い、重荷をともに背負うことができるように成長していきたいのです。』

「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。」(強調は筆者によるもの)

では、誰かが私たちを傷つけたときや私たちに対して罪を犯した場合に、その相手とどのように関わるべきかについて、私たちへの神の恵みから教えられることは何でしょうか?すべてを網羅するものではないものの、以下の原則は、愛によって過ちを見過ごすのがよいと思われる場合、過ちを指摘すべきと思われる場合についてそれぞれ説明しています。

見過ごすべきとき: 動機が見極めにくい場合

人との衝突が起こるときにしばしば、私たちは相手の動機に関して誤った思い込みをしてしまうことがあります。相手の行動の意図がわかっているつもりになり、自らの思い込みに従って行動してしまうのです。

しかし、私たちの心は欺かれやすいものであるため、そのような対応は私たちを誤った方向に導き、すれ違いを深めるだけの結果となってしまいかねません。相手の動機を正確に見極める代わりに、自分自身の価値観や大切に思っている事柄(心のうちにある罪深い欲や偶像も含めて)に影響され、自らの主観的なレンズを通して応答してしまうのです。

それとは対照的に、相手の動機が見極めにくい場合には、傷つけられることがあってもその行為を見過ごすことが、聖書的な愛の模範を表す素晴らしい方法となり得ます。1私たちは、忍耐と親切、謙遜、寛容、恵みを求めていきたいのです。コリント人への手紙第一13章4-7節の描写を見てみましょう。

『人が私たちに対して罪を犯したと思われるとき、ほとんどの場合、基本的には可能な限り、愛をもってその罪を見過ごすのがよいのです。』

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」

相手の動機がはっきりしない場合には、可能な限り愛によって相手の過ちを見過ごすようにしましょう。寛容さを示し、忍耐強く待ち、知恵と理解が与えられるように祈りつつ、キリストのように相手を愛することができるように努めたいのです。

見過ごすべきとき:相手の行動が他の要因に影響されている場合

2番目に、ある影響や要因が相手の心や行動を左右している場合も、愛によって見過ごすべきときと言えます。人の行いはその心から生じる、と聖書が教えているのは事実である一方で(箴言4:23)、みことばは、置かれた状況も私たちの応答に影響を与え得るものであると示しています(IIコリント1:9)。そのような場合、忍耐をもって相手とその悩みを理解しようと努め、傷つけられることがあっても愛によって見過ごすということが知恵のある選択でしょう(箴言18:13)。

たとえば、その人は病気と闘っており、それに伴う疲労と弱さを覚えているかもしれません。私たちの肉体は霊的な心の部分にも影響を与え得るものであるため、こうした状態の影響が私たちの言葉や振る舞いにも表れることがあるのです。そのような行動を正当化するわけではありませんが、私たちは、相手が自分の身体の状態と格闘しているとき、忍耐をもって寄り添うことができるのです。

『面と向かって指摘することがふさわしい行動である場合もあります。そのような場合はいつでも、過ちを指摘する目的は相手の回復と福音の働きです。』

人はまた、苦しい状況や様々な試練の影響を受けることがあり、それは悲しみだけでなく、怒り、苛立ち、恨み、絶望などの形で表れてくることがあります。それゆえ、相手が間違った行動をしていると思われる部分をことごとく指摘しようとするよりも、大変な中を通っている相手に愛をもって忍耐強く関わる方が賢明なのです。私たちは、このような方を敵として見るのではなく、家族として見て寄り添い、重荷をともに背負うことができるように成長していきたいのです(ガラテヤ6:2)。

上記の2つの原則で、愛によって相手の過ちを見過ごすことが適切と思われるケースについて述べました。正義に敏感な心を持った私たちにとっては難しいことかもしれませんが、人が私たちに対して罪を犯したと思われるとき、ほとんどの場合、基本的には可能な限り、愛をもってその罪を見過ごすのがよいのです。2しかしときには、面と向かって指摘することがふさわしい行動である場合もあります(ルカ17:3-4)。そのような場合はいつでも、過ちを指摘する目的は相手の回復と福音の働きです(マタイ18:15; IIコリント5:11-21;ヤコブ5:19-20)。次の4つの状況においては、愛をもって相手の過ちを指摘する必要があると言えるでしょう3

指摘すべきとき: 相手の行動が明らかに罪である場合

上述のように、状況によっては相手の動機が容易に見極められないことがある一方で、相手の行動が明らかに罪である場合もあります。罪であることがはっきりしている場合、面と向かって話すことは、相手が自らの行動を理解し、悔い改め、信仰によって神と和解することを助ける愛のある方法となり得ます。

では、明らかに罪深いと見極められ、はっきりと指摘されるべき振る舞いとはどのようなものでしょうか?その人のクリスチャンとしての証しを損なうような深刻な言動や、クリスチャン同士の一致を危うくするような振る舞いを考えてみましょう。陰口、誹謗中傷、分裂、憎しみから来る悪口、泥酔、性的な罪、その他大きな影響をもたらす罪があるときは、おそらく直接指摘することが最善の選択である状況と言えます。

指摘すべきとき: パターンが見られる場合

『謙遜に、また和解の願いをもって相手に接するならば、関係回復の可能性は一段と高まるのです。』

時には、ある人の行動が上述のような深刻なものではなくても、習慣化していることが見てとれるために、直接指摘することがその人にとってよい場合、必要な場合があります。不平、愚痴、怒り、不満などのパターンが見られるときはすべて、心の状態に対処することが、その人の助けになるだけでなく、キリストのご性質である憐れみと愛を示す機会ともなるのです(ガラテヤ6:1)。

指摘すべきとき: 相手の行動があなたとの関係を損なっている場合

あなたは、相手の意図ははっきりしないが、ともかく相手の行動によって個人的に傷ついた、という状況にあるかもしれません。ここで、上述のように、私たちはしばしば歪んだレンズを通して物事を見てしまうため(エレミヤ17:9)、注意する必要があります。しかし、相手の過ちゆえに両者間の関係が現実に損なわれている、あるいは損なわれているように感じるのなら、原因となっている状況に関して相手と話し合い、「平和を保つ」機会を見出すことが最善でしょう(ローマ12:18)。謙遜に、また和解の願いをもって相手に接するならば、関係回復の可能性は一段と高まるのです。

指摘すべきとき: 相手自身や周りが傷ついている場合

罪を指摘することが必要となり得る場合として最後に挙げたいのは、ある人の行動がその人自身や周囲の人々を傷つけてしまっているときです。依存症、薬物の乱用、虐待や抑圧、自傷行為4などの罪深い行動や生活習慣は、こうした振る舞いをしている人自身とその影響を受ける人の両方に実害が及ぶ状況をもたらしてしまいます。そうした行為があなたに対して直接行われていない場合でも、その人の罪が生んでしまっている被害への懸念と、本人の回復を願う気持ちから、面と向かって話すことが必要となる場合があるのです(ヤコブ5:19)。

振り返りのための質問

  1. この記事は、「どんな場合に愛によって相手の過ちを見過ごし、どんな場合に罪を指摘すべきか 」という問いを明確にする上でどのように助けになりましたか?
  2. ここに述べられるいる以外に、聖書に基づいて「過ちを見過ごすべき場合」「相手の罪を指摘すべき場合」と言えるケースはあるでしょうか?

脚注

[1] I am thankful for Stuart W. Scott’s wisdom in discussing this question in one of his biblical counseling lectures at the Southern Baptist Theological Seminary in July 2016.

[2] I am indebted to Darby Strickland for her insight on this point shared during a breakout session (“What to Do When Family Hurts You”) at the 2017 CCEF National Conference.

[3] These categories are adapted from Robert D. Jones, Pursuing Peace: The Christian Guide to Handling Our Conflicts (Wheaton, IL: Crossway, 2012), 155-157.

[4] 虐待や抑圧の事例においては、加害者と向き合う前に、被害者の安全確保がまず第一になされるべきです。さらに、虐待への対応について、当該行為に犯罪性が認められる場合には、法的機関への通報義務が発生することがあります。その場合、こうした罪の発生によって被害を受けた各個人に適切なケアが提供されるよう、教会のリーダーにも情報が共有される必要があります。


This article has been translated and used with permission from the Biblical Counseling Coalition. The original can be read here, When to Cover an Offense and When to Confront Another’s Sin.
この記事は「Biblical Counseling Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:When to Cover an Offense and When to Confront Another’s Sin