死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
Iコリント15:42-43
ある日、私の3歳になる息子が家の小さな畑から嬉しそうに帰ってきた。
彼の手には枯れた木の根のような塊があった。
それは去年、畑を造るために掘り起こした小さな切り株だった。
枯れて泥だらけで、腐りかけた切り株だ。
しかし彼を喜ばせたのは、切り株から新しい芽が生えていたからだ。
美しい緑の若葉が。
朽ちることのない、「いのちの力」を私は思い起こした。

新年。私たちは希望を持って歩みたい。
その希望は蝋燭の火のように、風が吹いて消えてゆく希望ではない。
神が私たちに約束してくださる希望は消えない。
しかし罪の現実はいつも私たちを落胆させる。
この世界には今も戦争があり、災害があり、貧困がある。
いつ何が私たちの人生に突然押し寄せてくるかわからない。
病も、また私たちの人生に訪れる。それは突然に。
日々私たちの肉体も朽ちてゆく。皆、死に向かっているから。
本当に私たちには希望があるのだろうか?
如何にして私たちは死に対して希望を持つのか?
イエスが十字架に架けられ、3日目の朝。
女性たちが向かった墓は空っぽだった。
イエスキリストは復活した。
そして、その復活は彼に属する者たちへの復活の保証なのだ。
弱き私の内にあるキリストの「いのちの力」が私たちの「希望」。
その「いのち」には究極的な絶望である死さえも打ち勝つことは出来ない。
私たちの人生において、主はすでに勝利をとられた。
死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。
(Iコリント15:55)
この「いのち」以上に素晴らしい贈り物はこの世に存在しない。
この「希望」を喜び楽しむ、この招きに私たちは応答していこう。
祈祷
愛する主よ、あなたの御名を賛美します。 新しく始まったこの一年をあなたの「復活と希望」を喜び、楽しんで歩むことができますように。 そしてこの喜びが私にとどまることなく、家庭に、友人に、地域に広がっていきますように。 どうぞ主よ、この弱き私を用いてください。