神はあなたを喜びとし 幸せにする

3月4日 第64日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 03月 04日  - 

私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

(エペソ人への手紙2:3)

神の怒りのすべて、私たちが受けるべき有罪宣告のすべてが、イエスの上に注がれました。神が要求される完全なる義は、すべて、キリストによって成し遂げられたのです。この宝を(恵みによって!)私たちが目の当たりにするとき、そしてこのようにしてキリストを受けるとき、キリストの死は私たちの死と見なされ、キリストの有罪宣告は私たちの有罪宣告と見なされ、キリストの義は私たちの義と見なされ、そして神はその瞬間、決定的かつ永遠に、100%、私たちの味方になられます。

ここで解決されないまま残っている疑問は、このようなものでしょう。「聖書は、神がみこころによって、永遠のうちに、私たちを選ばれたことを教えているのではないですか?」

言い換えるならば、物事を深く考える人ならこう問いかけるはずです。「神が100%私たちの味方になられるのは、キリストを信じ、キリストとその義と結ばれた瞬間なのですか? 神は世界の基が据えられる前の選びの段階で、すでに100%私たちの味方なのではないですか?」 エペソ人への手紙1章4-5節で、パウロはこのように言っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

では、神は永遠の昔から、選ばれた人に対して100%味方ではないのでしょうか? この答えは、「100%」が何を意味するかにかかっているでしょう。

「100%」という言葉について、極力聖書の真理を守るよう、聖書箇所をいくつか見てみましょう。例えばエペソ人への手紙2章3節で、パウロは、クリスチャンがキリスト・イエスにあって生かされる前は、「御怒りを受けるべき子ら」であったと言っています。「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

すなわち、パウロが言っているのはこういうことです。私たちが新しく生まれる前、つまりキリストとともに生かされる前は、神の怒りは私たちの上にありました。選ばれた民は、怒りの下にあったのです。しかし神が、私たちをキリスト・イエスにあって生かし、キリストの真理と美しさを見るように目を開かれるとき、これが変わります。私たちはキリストが私たちのために死んでくださったことを受け入れ、またイエスと結ばれることによりその義が私たちの義とみなされることを知るのです。この変化が起こる前は、私たちは神の怒りの下にありました。しかし、キリストを信じ、キリストと結ばれたことによって、神の怒りはすべて取り除かれ、それゆえ神は、その意味で、100%私たちの味方となってくださったのです。

ですから、神があなたを守ってくださるという真理に、喜びの声をあげようではありませんか。神は必ずあなたを最後まで導かれます。キリストにあって、神は100%あなたの味方なのですから。つまりこれは、あなたが最後まで辿り着くことによって、神が100%味方になってくださるのではないことを意味します。最後まで辿り着けるのは、神がすでに100%あなたの味方でいてくださるという事実によるのです。

 聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, God Rejoices to Do You Good.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます: God Rejoices to Do You Good