「なぜ従わなければいけないの」と子どもに聞かれたことはありますか。
7歳から17歳まで、6人の子を持つ親として、私はこの質問をよく聞いてきました。このようにはっきりと質問されなくても、声の調子や表情がそう言っていることもあります。親として、私は単に子どもの行動を変えたいわけではありません。私は子どもに、クリスチャンとしてなぜ従うのかという、「なぜ」の部分を理解してもらいたいのです。旧約学の教授として、私は「イエスが教えられた聖書は、子どもの質問にどのように答えるだろうか」と考えました。そしてその答えを申命記に見つけました。
申命記6章でモーセは、神を愛する親(申命記6:4-5)が自分の子どもにも神を愛するように教えるなら(申命記6:7)、必ずやこの種の質問をされる(申命記6:20)と書いています。そして申命記6章20-25節で、モーセは親がどのように答えるべきか教えてくれています。
後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神である主が命じられた、このさとしと掟と定めはどういうことですか」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって私たちをエジプトから導き出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、ファラオとその全家族に対して、大きくて害をもたらすしるしと不思議を行い、私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。それで主は、私たちがこのすべての掟を行い、自分たちの神である主を恐れるように命じられたのである。今日のように、いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである。私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」
親の皆さん、よく見てください。ここでモーセは、真の従順の「なぜ」の部分を、3つ教えてくれています。
1. 決まりを定められた方を思い起こさせる
モーセはただ単に「神が命じられたのだから従いなさい」とは始めませんでした。その代わりに、まず従う理由となる背景を子どもに思い起こさせるように促しています(申命記6:21-23)。具体的には、①神なしには絶望的な私たちの状況を強調し、②私たちを解放した神の救いのみわざに目を向け、③神が終わりまで真実でいてくださることをしっかり伝える、の3点です。
この①と②を上の聖書箇所に見ることができます。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって私たちをエジプトから導き出された」とあります(申命記6:21)。イスラエルの民をシナイに導き、律法を与えられるずっと前に、神は彼らをエジプトでの隷属状態から出エジプトの出来事を通して解放されたのです。イスラエルの民は奴隷だったのであり、神は彼らの救い主なのです。
従順に神に従うことには、過去の恵みに対する応答という一面があります。そして神の命令を心に留めることは、自由を意味します。隷属ではありません。新約においても、同じことがより深い意味で当てはまります。イエスは十字架によって私たちを罪への隷属と神の怒りから自由にしてくれました。今私たちが従順に歩むのは、「罪から解放され(た)」結果なのです(ローマ6:22)。
次に、「(主は)私たちを[エジプト]から導き出された。それは、……その地を私たちに与えるためであった」(申命記6:23)とあります。多くのイスラエルの民が、自らの不信仰のゆえに約束の地に入る機会を失いましたが(申命記2:14-15)、神は祝福することにおいても呪うことにおいても、常に真実です。神によっていのちと勝利がもたらされるのであり、神なくして私たちにあるのは死のみです。キリストにあって、信じる者は今、真の安息を見いだし(マタイ11:28)、永遠において完全な安息を得るという確かな希望を持っているのです(ヘブル4:1-13)。この事実が、私たちが日々神に従う動機となるはずです。
ですから親は子どもに対し、彼らの真実な救い主、彼らの愛する方が、いのちへと続く道を従順に歩むように命じておられることを思い起こさせましょう。
2. 従うことで得られる祝福(報酬)を思い起こさせる
モーセは次に、親は子どもに従順によってもたらされる益について思い起こさせるように教えています。モーセは、従順から得られる祝福が従う原動力になることを強調しています。「それで主は、私たちがこのすべての掟を行い、自分たちの神である主を恐れるように命じられたのである。今日のように、いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである」(申命記6:24)。両親を敬う従順な子どものまわりには祝福の輪があるように(エペソ6:1-3)、みことばに聞き従うことと人生を楽しむことには深いつながりがあるのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」とある通りです(申命記8:3; マタイ4:4; 申命記32:47も参照のこと)。
イエスの完全な従順が赦しを保証し、神の約束をことごとく成就させ、私たちにいのちを楽しみ従う力を与えます(ローマ8:1-4, 13; IIコリント1:20)。ですから、子どもが「なぜ神に従わなければいけないのか」と尋ねるなら、神の恵みと真実に目を向けさせ、罪に「いいえ」と言い、神に「はい」と言う人すべてが楽しむことのできる祝福を思い起こさせましょう。
3. キリストだけが保証してくださる義を祝う
モーセはイスラエルの民に完全な従順を命じました。それが、彼らが義とされたことの証拠となるからです。「私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである」(申命記6:25)。
しかしながら、モーセの言葉を聞いていた民の中で、この命令の通りに生きられる人はひとりもいませんでした。モーセが後に「しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに悟る心と見る目と聞く耳を与えられなかった」と言っている通りです(申命記29:4)。モーセは、イスラエルの民の頑なさが彼らの死につながることを知っていました(申命記31:27-29)。モーセの律法の契約が「罪に定める務め」を果たすように神によって定められたのはこのためなのです(IIコリント3:9)。キリストの新しい契約のみが、人を「義とする務め」を果たすことができるのです(IIコリント3:9)。
私たちは、そして願わくば私たちの子どもも、恵みによって救われた罪人です。モーセの律法は、その性質上、私たちを罪に定めます(ローマ3:19-20; IIコリント3:9)。私たち全員にとって、「いのちに導くはずの戒めが、死に導くもの」となるからです(ローマ7:10)。キリストだけが罪を犯しませんでした(ヘブル4:15; Iペテロ2:22; Iヨハネ3:5)。そして信仰によって神に降伏する人は、このキリストの「義の行為によって……義と認められ、いのちを与えら(る)」のです(ローマ7:10)。キリストにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。なぜなら父なる神が「ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰された(から)です。それは、……律法の要求が満たされるため」でした(ローマ8:3-4)。
パウロもヨハネも、クリスチャンの正しい行いが、その人が本当にキリストにあって神の前に正しいとされていることを示す証拠であるとしています(ローマ2:13; Iヨハネ3:7)。しかしながら、私たちの従順は御霊により可能とされたことであり、キリストにあって義とされたことの結実であって、私たちは神に感謝するしかないのです(ローマ6:17)。「死んだ者は、罪から解放されているのです。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです」(ローマ6:7, 22)。
子どもへの答え
申命記におけるモーセの教えはクリスチャンにとっても役に立ちますが、私たちはキリストの完成されたみわざに照らしてこの教えを読むように注意しなければいけません。子どもに「なぜ従わなければいけないの」と聞かれたら、私たちの従順がキリストとの関係でどのように重要であるかが子どもに伝わる形で、申命記のみことば(モーセの指示)に即して答えると良いと思います。
- なぜ従うかの背景を思い起こさせる。キリストが私たちを神の怒りと罪の力から救ってくださったからこそ、私たちは従う。
- 従順に伴う祝福を思い起こさせる。主に従うすべての人に約束された将来の恵みについて話す。
- キリストだけが保証することのできる完全な義を喜び祝う。この義のおかげで、すべてのことが私たちの益として働くことを伝える。