感情というのは、厄介なものです。私たち一人ひとりに感情があります。そして一人ひとりに、自分の感情との葛藤があります。多くの人にとって、人生最大の悩みが自分の感情であったりします。そしてまた、他の人の感情という海もあり、私たちはみな、その海を泳いでいます。私たちの多くが、感情を資産というより負債と捉えているのではないかと思います。
では、聖書は感情について何と言っているでしょうか。聖書は、私たちが話すようには感情について語っていません。ローマ人への手紙に感情についての神学が網羅されていたり、箴言に「あなたの感情を管理する方法が六つある。いや、あなたが感じるべき感情が七つある」と始まるセクションがあったりしたらいいのにと思いますが、そういう箇所はありません。しかし、聖書は頻繁に、ある感情については感じるように、またある感情については感じないようにと勧めています。例えば、試練にあうときは喜びと思いなさいとあります(ヤコブ1:2)。また、怒りや無慈悲を捨てるように言われています(エペソ4:31)。互いに同情し合うようにも言われています(Iペテロ3:8))。そして、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして神を愛するように、という命令もあるのです(申命記6:5)。
神は私たちに、畏敬の念に満ちた喜び(詩篇8など)から、激しい憎しみ(詩篇139:21-23など)に至るまで、あらゆる感情をもって神が造られたこの世界と向き合うようにと命じておられます。私はこのことについて長い時間をかけて考えてきました。どのようにしたら、私たちはこのように生きることができるでしょうか。神は、私たちが自分の感情を瞬時に完璧にコントロールすることを期待しておられるのでしょうか。いいえ。神は決して、遠く離れたところから、私たちが決して完全には感じ得ない感情を持つように命じておられるのではありません。むしろ神は、無限のあわれみをもって私たちと出会ってくださり、私たちの感情に常に影響を及ぼしている、私たちの心と人格を変えてくださるのです。
神は、聖書の全巻を通して、絶えず私たちを励まし、慰め、罪を示し、方向転換をさせてくださいます。感情面での「自己変革マニュアル」をポンと手渡すのではなく、私たちの感じる感情をすべてご存知の上で、ただそのまま御許に来るようにと、忍耐強く、優しく、私たちを招いておられるのです。このように考えると、私たちの感情というのは、神との関係を深める最高のきっかけとも言えますね!
自分の感情を理解する
自分の感情がグチャグチャのときでも、神はあなたが神のそばに近づくことを望んでおられると聞いて驚きましたか。そうだとしたら、このことを思い出してください。聖書は、感情を基本的に良いものと見ています。なぜそう言えるのでしょうか。それは、私たちは神のかたちであり、神にも感情があるからです。神の喜び、憎しみ、怒り、あわれみ、妬み、そして愛は、私たちの感情のモデルなのです。
私たちは、事実を分類するコンピュータ以上の存在です。神は私たちを、「主がいつくしみ深い方であることを味わい見つめる」ようにも、「悪を憎む」ようにも造られました。また神は、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」と命じておられます。それは神ご自身が、民のことを思って胸を熱くされる方だからであり(ホセア11:8など)、また、祭りと祝いを命じられる方でも(レビ23など)、ラザロの墓で涙を流される方でもあるからです(ヨハネ11)。
神は、(クリスチャンの多くが考えるようには、)感情的になるのを避けるように、あるいは感情を押し殺すようにと命じてはおられません。また、(私たちの文化が奨励するようには、)無条件に感情を大事にするようにとも命じておられません。むしろ、感情を神のもと、あるいは神の民のもとに持っていくことによって、感情と向き合うように命じておられるのです。私はこの「向き合う」という言葉が好きです。この言葉はその感情が正しいとか間違っているとかいう判断を早急に下しませんし、変わる必要があるとも決めつけないからです。その代わりに、この「向き合う」という言葉は、聖書が光りを当てることに着目します。つまり、(良いものも悪いものも含めて)私たちの感情は、私たちが実に様々な形で神を必要としていることを示すのです。
感情を持つことによって私たちは、神が見られるようにこの世界を見るようにと招かれています。この世界は、堕落していて本来の姿を失ってもあり、美しくもあります。ですから私たちは神が贖っておられるところは喜び、これから来たるべき完全な贖いを求めて焦がれるのです。神の力と忍耐深さのうちに守られてこそ、私たちは自分の内面の反応に向き合い、それに正直に名前を付け、神と他の人と共に、それについて話し合うことができるのです。
自分の感情を神の御前に持って行く
ここまで読んできて、「でも、自分の感情を神のもとに持っていくというのは、実際にはどうすることなのだろうか」と疑問に思う人もいるかもしれません。私にとって特に力強く語り掛けてきた聖書箇所を、例としてあげましょう。
詩篇22篇1節を見てください。「わが神 わが神 / どうして私をお見捨てになったのですか。/ 私を救わず 遠く離れておられるのですか。/ 私のうめきのことばにもかかわらず」とあります。ここに、深い苦悩の中にいる人がいます。彼は悩み、うめいています。それだけではなく、彼は見捨てられ、孤独です。ここで少し立ち止まり、このようなことを書くに至るには、彼がどういった類の感情を、どれほどの強さで経験しなければならなかったかを考えてみてください。パニックに陥るような恐怖。深く自分を混乱させる失望。衝撃的な裏切りの痛み。ひどい悲しみ。
では次に、彼がこうした苦しい感情をどうしたかに注目してください。神のもとに持っていったのです。彼は、何の躊躇もなく神と向き合っているようです。神に見捨てられたと感じていることも、大声で叫びながら神にぶつけています。距離を感じているこの神のことを、彼は「わが神」と呼び、漠然とした神にではなく、この神に直接語っているのです。「なぜお見捨てになったのですか、なぜ遠く離れおられるのですか」と。
もちろん、私たちは他の聖書箇所から、神が決してみ民を見放されたり見捨られたりしないことを知っています。詩篇の著者のこの瞬間の感情がすべてなのではありません。詩篇の著者もわかっています。その証拠に、この詩篇は神の真実を肯定して終わっていますから。しかし、この詩篇や、これに似た多くの詩篇には、「神は本当は彼を見捨ててはおられない」などという脚注がありません。そのままの状態で私たちの目に留まります。そして重要なことに、この詩篇は、著者である彼にも、読者である私たちにも、「神の真理を反映していないから、自分の感情を無視するように」、とは教えていないことです。その代わりに、たとえ感情の嵐の只中にあっても、着実に神に向かっていく道があることが、この詩篇によって私たちに示されているのです。
私たちの心の叫びを聞き、愛してくださる神
詩篇の著者のように、あなたも裸の心で神の御前に行き、重荷を降ろすことができます(マタイ11:28-30)。神は苦しんでいるあなたを受け止め、あなたとともに歩んでくださいます。感情に圧倒されるようなときには、神の方を向いて、その感情を言葉にしてみてください。そうすれば、神が聞いてくださいます。言葉にできないときは、詩篇22篇を読んで、神に助けを求めましょう。あなたがそうするとき、天におられるあなたの父は、愛する我が子を抱きしめる機会だと大喜びしておられることを、どうか知ってください。