創世記1-2章の福音的解釈

ヴァーン・ポイスレス(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2022年 08月 30日  - 

定義

創世記1-2章の年代については、可能な解釈が数多くありますが、福音的なクリスチャンはみな、洗練された聖書の見方をし、科学的な主張に対してそれぞれ明確な立場を取っています。

要旨

現代の西洋では、地球の誕生、年齢、発展にまつわる議論の中で、創世記1-2章は単に時代遅れだと考える人が多くいます。しかしクリスチャンは何世紀にもわたって、創世記1-2章を現代科学の主張との関係でどのように理解すべきか、格闘してきました。創世記1章の年代と現代科学による地球の年代測定との関係については、①若い地球説、②成熟した宇宙創造説、③啓示対応説、④断絶説、⑤地域限定説、⑥間欠説、⑦長期説、⑧類比説、⑨枠組み説、⑩神学的観点説など、少なくとも10の見解があります。これらの説には、聖書の扱いや科学データの扱いなど、それぞれに課題があります。また、これに関連する問題として、アダムとエバの創造の問題もあります。アダムとエバは、現代の科学で定説となっているように、もっと大きな、徐々に進化してきた生物全体の流れの一部なのでしょうか。それとも、二人は神によって直接、特別に創造されたのでしょうか。


創世記1-2章を聖書に忠実に解釈するには、どうすればよいのでしょうか。

現代の西洋文化圏では、創世記1-2章、ひいては聖書全体を否定する人もいます。そのような人は、現代の知識と照らし合わせれば、聖書の記述は完全に時代遅れであると考えます。科学の進歩によって聖書の間違いは明らかになり、聖書の伝えるメッセージはもはや意味をなさなくなったと考えるのです。しかしこのように聖書を否定する人たちは、聖書を神のことばとして大切にするクリスチャンが、聖書と科学の主張との関係を何世紀にもわたって注意深く考えてきたことを、ほとんど考慮に入れていません。クリスチャンは、創世記1-2章と起源に関する主流科学の主張との関係を説明しようと、多くの見解や理論を生み出してきました。

可能な見解

以下に10の異なる見解を簡単にまとめ、簡潔な評価を加えます。これらの見解は、出版されている書籍やウェブサイト上で、より広範囲に議論されていることを、ここで断っておきます。

1. 若い地球説

『…聖書を否定する人たちは、聖書を神のことばとして大切にするクリスチャンが、聖書と科学の主張との関係を何世紀にもわたって注意深く考えてきたことを、ほとんど考慮に入れていません。』

若い地球説を説く創造論者は、地球を含めた宇宙全体が、誕生からほんの数千年しか経っていないという立場を保持しています。この世界からいくつか証拠を挙げて論じていますが、この説を主張する最大の理由は、彼らの創世記1章の解釈に忠実であることです。この説では、創造の6日は普通の日であり、間に断絶もありません。そのため、過去に関する主流科学の主張の多くに異議を唱えたり、再解釈したりします。このアプローチは、通常「洪水地質学」と併せて主張されます。洪水地質学では、世界中の化石を含む主要な地層は、ノアの洪水の時代に形成されたと考えます。若い地球説は時として「1日24時間説」と呼ばれることもありますが、創世記1章の創造の6日間を24時間の日だったとする見解は他にもあるので、この呼び方は適切ではないでしょう。

評価:この説は大きな課題を2つ抱えています。(1)創世記1-2章の解釈として、若い地球説だけが合理的な見解か、それともこの説はこの箇所を読み込み過ぎているか、と(2)若い地球説の証拠の解釈は妥当か、です。証拠が限定的に用いられる点や、若い地球説の聖書解釈に合わせて証拠が特別に調整されなければいけない点が、批評家によってしばしば指摘されています。

2. 成熟した宇宙創造説

成熟した宇宙創造説も、創世記1章の1日は普通の長さだったと主張します。しかし若い地球説とは異なり、「成熟した宇宙が創造された」という大きな原則を用いることにより、主流科学の主張との明らかな食い違いに対処します。アダムとエバは徐々に成長していったわけではなく、成熟した状態で創造されました。同じように、宇宙全体も一貫して成熟した状態で創造されたのではないかと考えるわけです。アダムは創造されたとき、科学的に見れば25歳くらいの状態であったかもしれません。これと同じで、宇宙全体も、科学的には140億年と測定されるような状態で創造されたかもしれないのです。

評価:批評家によって指摘される最も大きな問題点は、実際とは異なる見かけの年齢をもった宇宙を創造することで、神が私たちを騙しておられるかのような感じがすることです。これに対する成熟した宇宙創造説を提唱する側の基本的な返答は、世界の始まりという例外的な時期に、通常の成熟の過程を期待する人間の側に問題があるというものです。通常の成熟は過去からの漸進的なプロセスを前提としており、創造には当てはまらないものだからです。

3. 啓示対応説

啓示対応説は、創世記1章の創造の6日間は、神がモーセに創造のみわざを順に啓示された、モーセの人生の6日間に対応するというものです。モーセに啓示のあった1日24時間の6日間であり、神が世界を創造された1日24時間の6日間ではないと主張します。

評価:創世記1章の6日間が、神が世界を創造された6日間ではなく、啓示の6日間であったとする証拠は何もありません。出エジプト記20章8-11節では神の創造のみわざと人間の働きが対比されており、創世記1章が神の啓示ではなくみわざについて語っていることを裏付けています。

『創世記1-2章に関してこのように複数の説があるということは、それぞれの説を注意深く検証すべきであって、よく考えずに結論を出すべきではないということです。』

4. 断絶説

断絶説とは、創世記1章の1節と2節の間に時間的な断絶があるとする説です。創世記1章1節は無からの創造という原初のみわざについてであり、その後に特定できない長さの時間が流れたと考えます。そして2節では、サタンの堕落に伴って破壊されてしまった創造の秩序をいったんリセットする様子が描写されています。ですから訳としては、「地は茫漠となり、何もなくなった」となります。その後3-31節において、破壊された被造世界の回復が描写されます。過去に関する現代科学の主張は、1節と2節の間にある断絶の期間内に当てはまると主張します。

評価:2節のヘブル語の文法構造は、状況的な情報を提供するもので、主文を続けるものではありません。したがって、「地は茫漠として何もなく」という、通常の訳が正しい訳となります。

5. 地域限定説

地域限定説は、創世記1章1節は全宇宙的な創造のみわざについてであるが、創世記1章の大部分は地球全体ではなく、地球上のごく限られた地域における神のみわざを描写しているとする説です。

評価:このように地域が限定されているという証拠が本文からは得られません。

6. 間欠説

間欠説は、創造の6日間の1日は24時間であったが、日と日の間に大きな間隔があった可能性があるとする説です。神のみわざと過去に関する科学的な説明は、この間隔によって両立します。

評価:出エジプト記20章8-11節に見られる、創世記1章とイスラエル人の週ごとの安息の間にある並列関係に注目してください。創世記の日と日の間には間隔があり、出エジプト記20章8-11節で論じられている人間の労働は連続する6日間で行われるとすれば、並列関係が成り立たなくなります。

7. 長期説(一日一時代説)

『聖書の焦点は確かに多くの場合「誰」と「なぜ」かもしれませんが、聖書は歴史や世界で起こったことにも関心を持っています。』

長期説(一日一時代説)は、ヘブル語の「日」を意味する単語(ヨミ)は、24時間の日ではない一定の期間を表すことがある(創世記1:5; 2:4; 申命記32:35)という事実に拠っています。したがって、創世記1章の「日」は、地質学的な時代に近い、長い期間であった可能性があります。

評価:創世記の「日」には、第一日、第二日というように数字が振られています。また、夕があり、朝があったとあります(創世記1:5など)。これらの日は人間の労働日(出エジプト20:8-11)に対応しています。したがって、文脈から、ヘブル語の単語は24時間の日を意味しているでしょう。

8. 類比説

類比説は、創世記1章の日は神の労働の日であるとします。創世記で描写されているのは労働と安息の周期であり、これと類比の関係にあるのが人間の労働と安息の周期です。この類比が出エジプト記20章8-11節に書かれている安息日の戒めの基盤となっています。創世記1章の6日間では、労働と安息が焦点です。したがって、時計などの現代的な計測器を用いても、日の長さは分かりません。夕と朝の言及は、夕が安息の開始であり、朝が新しい労働の始まりであると考えると、理にかなっています(詩篇104:23)。

評価:光と闇の周期は第1日から始まったと考えるのが自然です。したがって、日は光と闇によって決定され、単に労働と安息の周期によって決定されるわけではありません。

9. 枠組み説

枠組み説は、創世記1章の日の構成は文学的な枠組みであり、特定の年代を意味するものではないとします。この見解は通常、最初の3日間と最後の3日間が並列の関係にあり、全体として2つの部分に分かれた文学構造となっていることを根拠とします。神は最初の3日間で世界の主な「空間」または領域を創造されました。すなわち、天と、海と、乾いた地です。そして、神は最後の3日間でこれらの空間を、天の大空で光る物、海の生き物と鳥、陸の動物と人というように、対応した被造物で満たされました。

評価:創世記1章は進行していく物語となっています。文学的な構造があるからといって、時間の経過が無効になるわけではありません。

10. 神学的観点説

神学的観点説は、創世記1-2章の焦点は神がどのように世界を創造され、形造られたかにあるのではなく、誰がなぜこの世界を確立されたかという宗教的な記述にあるとしています。科学の関心が「どのように」であるのに対し、聖書の関心は「誰」と「なぜ」であるとするものです。

『アダムとエバは最初の人間として超自然に創造されたとする見解は、科学の主張と相入れないのです。しかし、主流の科学では種の起源の漸進性と奇跡の排除を前提としていることを認めた上で、こうした主張をふるいにかけなければいけません。』

評価:聖書の焦点は確かに多くの場合「誰」と「なぜ」かもしれませんが、聖書は歴史や世界で起こったことにも関心を持っています。神がなさったことについての「誰」と「なぜ」は、神が何をなさったかを聖書が記述していることによって明らかにされています。多くの場合、聖書は神が用いられた詳細な過程にまで踏み込みません。しかし、創世記1-2章で書かれていることは、本当の世界についての記述です。神がなさることがこの世界に違いをもたらし、それを私たちは観察するのです。創世記1-2章の記述は、神がこの世界で何をなさったかの歴史から切り離された、単なる神学的な記述ではないのです。

まとめ

創世記1-2章に関してこのように複数の説があるということは、それぞれの説を注意深く検証すべきであって、よく考えずに結論を出すべきではないということです。聖書が何と言っているのか各自がよく吟味する必要がありますが、同時に、神が6日間でどのように世界を創造されたのか、聖書は詳細まで語っていないことも認識すべきでしょう。成熟した宇宙創造説が指摘するように、創造の最初の6日間は、今科学で観察するような確立された秩序ではありませんでした。ですから、創世記1-2章の記述を超えて、神の創造のみわざの詳細について推測することは、慎重になされなければなりません。

同時に、ある説は他の説よりも理にかなっており、課題も少ないです。この記事の著者は、特に類比説と成熟した宇宙創造説が理にかなっていると思っています。若い地球説を評価するには、被造世界に見られる多くの種類の証拠をどのように解釈するのか、もっと詳細に検証する必要があるでしょう。

アダムとエバ

創世記2章のアダムとエバの創造についても注意が必要です。新約聖書の証拠は、アダムが本当の歴史上の人物であっただけでなく、彼が全人類の唯一無比の祖先であったことを強力に示しています(使徒17:26; ローマ5:12-21; Iコリント15:21-49)。創世記2章18節も、「人がひとりでいるのは良くない」と言って、アダムが絶対的に最初の人であったことを示唆しています。この節は、たとえアダムが存在したとしても、だんだんと進化した、より大きな生物全体の歴史を踏まえて存在したに過ぎないとする現代の見解とは相入れないものです。アダムとエバは最初の人間として超自然に創造されたとする見解は、科学の主張と相入れないのです。しかし、主流の科学では種の起源の漸進性と奇跡の排除を前提としていることを認めた上で、こうした主張をふるいにかけなければいけません。

参考文献

Young Earth Websites

Old Earth Websites

Intelligent Design Websites

Book Resources


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この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Evangelical Interpretations of Genesis 1-2。このエッセイは「Concise Theology」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、The Gospel Coalition, INCまでご連絡ください。
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