キリストとともに不安と正面から向き合う

ボブ・ケレメン(著者) 、ブラッシュ木綿子 - 2024年 07月 16日  - 

ピリピ人への手紙を手本として

聖書は始めから終わりまで、恐れから信仰に進むことについて多くを語っています。この記事ではひとつの書簡、ピリピ人への手紙に焦点を当て、その中でもひとつの章、4章に注目したいと思います。この箇所に注目するのは、不安について聖書の知恵を得るのに、ここが唯一の、あるいは最善の場所だからではなく、よく引用される「何も思い煩わないで」(ピリピ4:6)の一節があるため、「皆がよく行く場所」だからです。パウロの書いたピリピ人への手紙全体の文脈の中で、この一節を見ていきましょう。

私の望みは、この記事を読み終えるときには読者のみなさんが、「素晴らしい!こんなに短い手紙の、こんなに短い章に、不安についての適切な助言がこんなに書いてあるなんて!不安に打ち勝つことができるように、他の聖書の箇所もよく調べて、人生の真理を見つけたい!」と思ってくださることです。

ギリシャ語の原文で、パウロの手紙は1,628語しかありません。このブログ記事の長さと同じくらいです。4章は356語しかなく、平均的な本の2ページもありません。けれども私たちはここに、下に挙げるような、包括的でしっかりとした、しかもあわれみに溢れた(私たちに深く関わってくる)、不安に勝利するための洞察を見いだすことができるのです。

『「平和の神」として神を見るとき、神の平安が私たちの心と思いを守るのを経験できます。』

  • あなたを守ってくれる神との関係を守れ:父なる神への信仰
  • 神の民との成熟した関係を築け:教会が必要
  • 「キリストにある」あなたのアイデンティティに固執せよ
  • キリストと思いを同じくせよ:戦いの武器
  • 教えを実践せよ(言行一致):勇気をもって生き、愛す
  • 救い主のうちにたましいを休めよ:感情面での成長の「いろは」
  • 堕落した世にあって賢く生きよ:土の器

パウロの目的:福音を中心にした用心

私たちに何も思い煩わないようにと助言する前に(ピリピ4:6)、パウロは「ですから」と始め、ピリピ人への手紙の目的を指し示しています。パウロは自分の置かれたとても現実的な状況の中から、現実の問題を抱える現実の人々に手紙を書いています。パウロは獄中からこの手紙を書いています。信仰のゆえに投獄されているのであり、ピリピの信仰者も、「次は我が身」かもしれないことを心得ています。不安になるような状況ですね!パウロはピリピの信仰者に、福音にふさわしく生活することを励ますために手紙を書いています(ピリピ1:27)。パウロは彼らが「霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦って……、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされること[が]ない」ように、と願っています(ピリピ1:27b-28a)。

A. T.ロバートソンは「堅く立つ」とは、信仰を捨てたり動揺したりする誘惑のあるときに使われる言葉だと説明しています。あきらめ、降参し、逃げ出そうとしている人に対する言葉だということです。これはつまり、「不安な人」ということですね。

「脅かされる」は、臆病な馬や怯えた馬の様子を表しています。ロビンソンによれば、「おっかなびっくり」と訳すのが最善です。臆病で、怯えていて、びくびくとおっかなびっくりの状態、これが不安を解剖した所見でしょう。

パウロの模範:堅く立て!

このような不安な状況の中で、パウロは福音によって堅く立つことが可能であると説明しています。「堅く立つ」と訳されているギリシャ語は「態度を明確にする」、「断固と主張する」、「直立不動である」、「見張りや番をして守る」という意味です。パウロはともに戦う私たちに、注意を怠らないように勧めているのです。「ともに戦う」は、競技場で敵の猛攻に対し、しっかりと訓練されたチームワークで戦うイメージです。

ピリピ人への手紙の目的は、福音を中心にして生きるなら、他の信仰者とともに不安に勝利することができると教えることです。自分の内でも外でも、すべてが「撤退!」と叫んでいるときに、キリストに従う者たちがしっかり用心し続けられるようにパウロは手紙全体を組み立てました。

パウロ自身の人生の目的は、内外の不安に直面しているときであっても、勇敢なキリストの戦士として模範となることです。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです」(ピリピ1:20)。

あなたを守ってくれる神との関係を守れ:父なる神への信仰

パウロはこの手紙の1,628語の中に、福音を中心にした用心の原則を織り込みました。福音中心の用心は、脅威に対する信仰の応答です。当然のことながらパウロはこの手紙の中で、私たちの心を父なる神への信仰に集中させるように、折に触れて励ましています(ピリピ1:2, 6, 7; 2:12-13, 15; 3:8-11, 15, 20-21; 4:4-7, 13, 19)。

『ピリピ人への手紙の目的は、福音を中心にして生きるなら、他の信仰者とともに不安に勝利することができると教えることです。』

これらの箇所はすべて信仰者が、キリストを信じる信仰によって、永遠に安全な神との関係を持っている現実を語っています。自身も不安と戦っていたマルティン・ルターは、日々の不安に効果的に対処するためには、人生の究極の不安にまず対処しなければならないと言いました。ヘブル人への手紙2章15節がこの究極の不安を説明しています。つまり、キリストを離れては、私たちは一生涯、死の恐怖、神との断絶の恐怖に、奴隷としてつながれているということです。私たちの究極の不安は、神との平和を一生見いだせないのではないか、神に決して受け入れられないのではないか、というものです。

ルター、パウロ、ヘブル人への手紙の著者、そして使徒ヨハネの全員が、究極の恐れと不安に対する福音中心の「答え」の核心を理解しています。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです」(Iヨハネ4:18)。

私はマイク(仮名)とのカウンセリングで、彼がキリストとどのような関係を持っているのか、彼と一緒に探っていきました。マイクは私とのカウンセリングを以下のようにまとめています。

「もし私たちが、私の『地上の』恐れだけに焦点を当てていたとしたら、心の問題にたどり着くことはなかったでしょう。私たちはローマ人への手紙8章、そしてキリストにある者が罪に定められることは決してないという真理、クリスチャンを神から引き離せるものは何もないという真理を、私の人生に当てはめて考え始めました。そこから、私は不安に勝利する道に向かって歩き出すことができたのです。人生最大の問題が解決したとき、他のすべての不安は、消え去りはしませんでしたが、キリストとともに対処できるろところに落ち着いたのです。日々の戦いの中で神の平安を感じるには、平和の神と永遠に安全な関係を持っているという穏やかな確信が必要だったのです。」

神のイメージを新しくせよ

パウロは、ピリピ人への手紙4章6節をはさむように、前後に次のイメージを配置することによって、私たちが信仰によって神と関係を持っていることの大切さを強調しています。

  • 主は近い(4:5)
  • 神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれる(4:7)
  • 平和の神がともにいてくださる(4:9)

不安が襲ってくると、私たちは自分の置かれている状況やそのときの感情に集中し過ぎて、神を忘れてしまったり、偏った神の見方をしたりします。でも私たちは神のイメージを新しくすることにより、その誘惑に対抗できるとパウロは教えています。神は平和の神であり、私たちを心から愛して、私たちと和解するために御子を遣わしてくださったのです。

『何か心配事があるなら、私たちを守ってくれる父なる神に、願い事をもって近づくべきです。』

「平和の神」として神を見るとき、神の平安が私たちの心と思いを守るのを経験できます。ロバートソンはこれを見事に表現しています。「神の平安はまるで守備隊のように、私たちの人生を守るために配置についている」

マイクとこの考えについて話したとき、彼は椅子から飛び上がりそうでした。

「いつもびくびくと、守りの姿勢で生きなくてもいいんだ。自分を守る必要も、自己防衛的になる必要もない。いつも恐る恐る地平線を見渡しているだけで一歩も動けないような、自分に焦点を当てた生き方をしなくていいんだ。神が私を守ってくださるなら、守りの人生を送ることはない!神が私の守り主なら、私は他の人を守ることができる!神が私の守備隊なら、私はエネルギーを神と他の人に注げるんだ!」

神の御性質に焦点を当て、神を礼拝する祈りをしよう

ピリピ人への手紙4章6節でパウロが使っている「不安」という単語は、あらゆることを心配して、習慣的、恒久的に心配の淵から抜け出せなくなっている様、たくさんの思い煩いに絶えず気を取られ、無数の方向に心が引っ張られている様を表しています。パウロは現実主義ですから、そのような生き方をやめる方法を教えてくれます。それは、神が守ってくれるという真理で、不安の攻撃から私たちのたましいを守ることです。

現実主義者のパウロはしてはいけないことを教えるだけではありません。代わりに何をすべきかも教えてくれます。不安の攻撃に屈するのではなく、祈りをもって反撃するのです。パウロが用いた祈りという言葉は、祈りの中でも神の御性質に焦点を当てた、神を礼拝する祈りです。不安になると、私たちは自分の置かれた状況に集中して動けなくなります。神を礼拝する祈りをささげることによって、私たちは神の御性質に集中して、癒されることを選ぶのです。

この神に焦点を当てた祈りはイザヤ書26章3節を思い起こさせます。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」。「志」は私たちの想像力を意味するヘブル語です。それは私たちの、自分の世界を思い描く能力、自分の信念を要約するような、一瞬のイメージを切り取る能力です。イザヤは「シャローム」を2回繰り返すことによって「全き平安」を言い表しました。完全にその人の状態が良いことです。私たちは、自分の想像力を真実なる神、父なる神に誠実に集中させることによって、この全き平安を体験するのです。

手のひらを神に広げて

ここまで、不安に陥る代わりに何をすべきかというパウロのたくさんの助言の中で、「祈り」の一語だけを見てきました。パウロは他に、感謝をささげること、願いを知ってもらうことを通しても神と関わっていくように励ましています。

何か心配事があるなら、私たちを守ってくれる父なる神に、願い事をもって近づくべきです。緊急に、具体的に、心の内をさらけ出して、自分の心配事に神が対処してくださるように、そして私たちの日々の糧を与えてくださるように願うのです。神に願い事を知ってもらうときは、謙遜で、従順で、心から神を信頼する姿勢であるようにと、パウロは教えています。

ミュージカルの『オリバー』を覚えていますか。貧しい孤児の少年オリバーは、孤児院の規則を破って、大胆に願います。「お願いです、先生、もう少しください」。両手を広げ、両腕を伸ばし、オリバーは空のスープ皿を天に向かって上げるのです。私たちも、不安に襲われるときには、神を信頼した、謙遜な願いで反撃しましょう。

「父なる神さま、私は圧倒されています。出口が見えません。何も力が残っていないように感じます。私のお皿は空っぽです。ガソリンのタンクも空っぽです。力尽きました。自分の力に頼るのではなく、あなたに頼ります。私は弱いですが、あなたは全能です。私は自分に頼ることを拒否して、あなたに頼ることを選びます。」


This article has been translated and used with permission from the Biblical Counseling Coalition. The original can be read here, Facing Anxiety Face-to-Face with Christ.
この記事は「Biblical Counseling Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Facing Anxiety Face-to-Face with Christ