牧師であり作家のポール・トリップは、「人間関係というのは、自分たちの幸せを守るシェルターではなく、贖いのみわざが行われる場であるべきだ」と指摘しています。でも正直なところ、私たちは罪の葛藤や恥ずべき経験を自分の中に留めておく方が楽だと思っています(ヨハネ3:19)。私たちには自分を守る思いがあり、心を開いて神や他の人に本当の自分を見せるのがとても難しいのです。
これは普遍的な問題ですが、男同士の友情で互いに心を開くのは特に難しいと言えます。この世も、私たちの肉も、ただ一緒に何かをするだけという、表面的な付き合いに留まろうとします。「私は主にある兄弟をどのように愛すべきか」と、積極的に問おうとしないのです。
私たちの多くは、互いに隠しごとをしない「男同士の友情」を意図的に育むのは、良く言って「奇妙なこと」、悪く言えば「弱々しく、男らしくないこと」だと考える文化や伝統の中で育っています。もともと男性には自分の心をあまり明かさない人が多い中、このような文化的な背景もあって、男性の友情ではなかなか「キリストのような愛」が育ちません。
自分の人生や心の内を分かち合っても恐れる心配など何もない「深い友情」を築くことは可能でしょうか。感謝なことに、福音があれば希望が持てます。この記事では、教会で兄弟愛を育む上で大事なことを5つ紹介します。
1. 会話をする機会を作り出す
エペソ人への手紙4章29節に、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」と書いてあります。
パウロが「必要なときに」と言っているのだから、黙っていた方が良いことが多いのだろうと私たちは考えます。確かにそういうときもありますが、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える機会は、ただ待っていれば訪れるというものではありません。むしろ私たちは、積極的にこのような機会を作り出すべきなのです。互いを尊重するための大きな一歩は、私たちが自分の生活、自分の人生に、相手の居場所を設けて提供することです。
相手がそこに入ってきて、同じ「場所」を共有するようになったら、「どうしたら、知恵と愛をもってこの友人の方へ動くことができるだろうか」と問う必要があります。「今は、『それで、本当のところ、最近どうなの。どんな罪との戦いがあった?』と聞けるチャンスだろうか」、あるいは、相手が何か話しているなら、「これは相手の話をより良く理解するためにフォローアップの質問ができるような機会だろうか」、そして、「フォローアップの質問として、『このことの中に、神様のお働きが見えるかい。これからどうしようと考えている?』と相手に聞いても大丈夫だろうか」、といった質問を常に考えながら、意図的に会話をする機会を作り出しましょう。
2. さらけ出す危険を冒そう
自分をさらけ出すのは危険です。友人に祈りの課題を分かち合うことを考えてみてください。あなたは自分の抱えている葛藤や人生の重荷を相手に見せています。もし相手がその情報を大事に扱わなかったらどうでしょうか。あなたが相手に見せたのは高価な陶器のようなものです。もし相手がそれを取り、床に落としたとしたらどうでしょうか。もちろん、大事なことを共有する前に、知恵を用いながら、信頼できる人間関係を時間をかけて構築する必要があるのは言うまでもありません。そのようなステップを踏んでいても、自分を相手に見せることには常にリスクが伴います。
イエスも、自分をさらけ出す点で、私たちに模範を示されました。十字架につけられる前夜、イエスは親しい友人であるペテロ、ヤコブ、ヨハネに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ14:34)と言われました。そして、「目を覚まして祈っていてほしい」と、彼らに重荷を分かち合ってもらう方法まで伝えています。でも、彼らはどうしたでしょうか。眠ってしまいましたね。
イエスは自分の人生について正直でした。そして、他の人も自分の人生について正直であれるように、助けられました。そんなイエスに対し、多くの人はありのままの自分を正直に見せようとはしませんでしたが、それでもイエスは正直に自分を見せ続けました。それは、どんな関係においても、誰かをよく知ることは誰かをよく愛する上で不可欠だとご存知だったからです。
3. まず恵みを肯定しよう
自分をさらけ出すことには危険が伴うと理解したのであれば、あなたに心を開いてくれた人に対して最初にすべきことは、正したり批判したりすることではなく、彼らの人生においてすでに働かれている神の恵みを肯定し、一緒に喜ぶことでしょう。
他の人の人生で働かれる神の恵みを見分けるのは、訓練によって身に着けるべきスキルです。私たちの心は自然と、悪いことや嫌なことに目が行きます。神は、友人の心と人生に超自然のお働きを成しておられる最中です。あなたはそれを探して見つけていますか。その人の悪い点だけでなく、その人の中でキリストがどのように働いておられるか、具体的に言えますか。友人の人生で神の恵みのみわざがなされたことがよくわかる、といったことを最後に話したのは、いつでしたか。
4. 相手の苦しみを共有しよう
あなたが話している相手(キリストにある兄弟)は苦しんでいます。あなたにとってその苦しみは小さなものに思えても、相手にとっては大きなもので、圧倒されているかもしれません。あなたは、相手が直面している問題にすぐに気づき、理解することができていますか。苦しんでいる人を愛する方法を知っていますか。それとも、相手が問題を抱えているなら、何か答えを提供しなくては、と思いますか。何かアドバイスしなければいけないと考えるでしょうか。以下に、簡単な提案をいくつかしてみたいと思います。
- 苦しみを探す。 友人に会うときは、相手の人生のどこに具体的な痛みや葛藤があるかを見つけられるような質問をしましょう。
- 近くに寄る。相手を思いやるためには、近くにいる必要があります。もし誰かがあなたに、その人が傷ついているところを教えてくれたなら、思いやりを示し、自分はどのように相手の痛みをケアしていくことができるかを、注意深く見極めましょう。それは、どのように祈ることができるかを尋ねるといった、簡単なことかもしれません。
- 希望の言葉をかける。誰かの苦しみについて聞いたら、必ず何か言わなければいけないわけではありません。その人の痛みを認め、その人の人生に寄り添うことが大切です。もし話すのであれば、祈りの中でその人の願いを御前に持っていくだけでなく、相手がキリストに目を向けることができるように祈りましょう。あらゆるものが不確実なこの世界にあって、唯一確実であられるキリストを示すことができるとよいでしょう。
5. 思慮深く罪を示す
私はカウンセリングで、「相手に罪を示す」ことは、「相手が自分の心を見る手助けをする」ことだと定義しています。マタイの福音書7章1-5節に書いてある、「人の目に指を突っ込んで罪を指摘する」というイエスの比喩が私は大好きです。こう考えれば、相手に罪を示すことは、相手を傷つけやすい行為だとわかりますね。だから慎重に行う必要があるのです。相手が自分のことを相当よく知っていなければ、自分の目に指を入れさせませんね。でも、信仰者同士、罪は示し合わなければいけません。
ではどうするかと言うと、やさしさと忍耐が鍵です。色々と互いに質問をして、互いの心を吟味しながら、相手を愛し、相手の人生にある「ちり」を慎重に取り除くことが大事です。このような罪の示し方は、謙遜な立場で相手を見ながら行われる共同作業になります。「自分の罪の方が大きい」(Ⅰテモテ1:15)という謙虚な姿勢がそこにはあります。そして、私たちには、受け取ることのできる神の恵みがたくさんあることを伝えます。
男性として私たちは、近づきすぎないように、共有しすぎないようにと語りかけてくる、周囲の文化の圧力や、自分の心の欺瞞と戦わなければなりません。もし私たちが本当に主にある兄弟を愛し、彼らの最善を考えるのであれば、互いに恵みを与え、ますますキリストに似せられるように共に成長できる機会を作り出さなければいけないのです。