自分の義に頼るのはやめましょう

ポール・デービッド・トリップ(著者)、ブラッシュ・木綿子(翻訳)-  2024年 01月 16日 - 

罪に対する対照的なアプローチ

罪は「悪い行い」よりも深い問題なので、「次はもっと頑張る」は解決になりません。

恵みによって心を変えられて初めて、私たちは罪から救い出されるのです。

落胆して自己改善に取り組む人と、嘆き悲しんで心からの告白に至る人との間には、大きな違いがあります。私たちは両者をよく混同してしまうと思います。前者は自分の力を信じ、自分で自分を救えると思っていますが、後者は自分の義をあきらめ、他からの助けを叫び求めます。前者は朝起きて、「よし、今日は失敗しないぞ」と言い、後者は恵みを求めることから一日を始めます。前者は行動の改善を目指し、後者は迷い出る心を告白するのです。前者は自分には自分を変える力があると考え、後者は力を与えられなければ罪とは戦えないと知っています。前者は自己変革の可能性にしがみつき、後者はその希望を捨てて、神のもとへと助けを求めに走ります。

『恵みによって心を変えられて初めて、私たちは罪から救い出されるのです。』

自力に頼る自己変革と、それに伴う自己処罰的な行動は、心からの告白と、その後に続く悔い改めの対極にあります。自分の過ちを認めた後、すぐに改善策を立てる人は、イエス・キリストの福音が人について何と教えているか、真の変化はどのように起こるか、助けはどこに見つかるかを、無意識のうちに否定しているのです。このような人は告白を省き、なおざりにしています。神に罪を告白するというのは、ただ罪を犯したと認めるだけではありません。たった今告白した罪から自分を解放する力が自分には無いことをも告白するのです。真の告白はいつも、過ちを認めると同時に助けを求めます。そしてイエスの赦しと臨在に励まされた心で、より良い、新しい生き方を願うようになるのです(悔い改め)。

自力に頼っている人は過ちを認めても、今後は過ちを犯さないように頑張る力が自分にあるという前提でいます。そして霊的に見える自己処罰的な行動を自分に課すので、自分が良い人になったような気がします。きっと次は大丈夫だろうと思います。確かに罪は認めているのですが、これでは全く垂直性がありません。つまり、神に向けての告白がないし、自分は救い出されなければならないという緊急性がないし、神への感謝と神を礼拝する心から出る、悔い改めがありません。これは「自分で自分を救える」という罪との向き合い方であり、私たちが考える以上にイエス・キリストの教会に浸透していると言えるでしょう。このような罪との向き合い方では永続的な変化は望めません。罪から自分を守り、罪を予防する心が生まれないからです。もっと救い主を礼拝し、救い主に仕えようという結果にもなりません。これではダメなのです。神の助けなしに自分を変える力があなたにあるなら、イエスは来なくて良かったはずですね。聖書に書かれている福音の物語は、どうしようもなく罪の奴隷となっており、自分たちを救い出す贖い主の恵みなしには、全く希望のない人たちの話です。あなたは今日、自分の罪が明らかになったとき、どちらの方法で罪に向き合いますか。

この記事はポール・デービッド・トリップ著「365日の恵み浴」からの抜粋です。


This article was translated by permission from the original English article published by Crossway. The original can be read here, Give Up on Your Own Self-Righteousness.
この記事は「Crossway」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Give Up on Your Own Self-Righteousness