絶望する心にある希望

クリスティーナ・フォックス(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2024年 08月 13日  - 

福音が私を救いました。

「何をそんな初歩的なことを」と思っていらっしゃるかもしれませんね。そうです、福音、つまりイエスの生と死とよみがえりの真理が、信仰によって理解され適用されたことで、私は永遠に救われたのです。でも、私がここでお分かちしようとしている「救い」は、このような救いではありません。

福音が、絶望のどん底にいる私を救ったのです。

私は思春期から何度もうつと戦ってきました。最初にうつになったのは、祖母が亡くなった年で、転校も経験したために、親しい友人関係まで失ったときです。大学と大学院に通っている時期に、束の間、うつが改善した時期もありました。けれども二人の子どもを出産した際には、両方ともひどい産後うつになり、絶望から今まで経験したことのないような暗闇に吸い込まれました。本当に恐ろしい経験でした。常に絶望的な思考と感情が私を支配し、麻痺してしまうようでした。深い深い穴に落ち込んだ私に、出口は見えませんでした。

イエスの成したこと

訓練を受け、資格を持ったカウンセラーとして、私はうつを克服するために良いとされることはすべてやってみました。それによって一時的に助けられたことも確かにありましたが、私が願い、最も必要としていた希望を見いだすことはできませんでした。そこである日、私は助けを求めに、牧師に会いに行ったのです。

『神の私たちへの愛は、私たちの行いにかかっているのではなく、イエスがすでに成してくださったことにかかっていると、安心してよいのです。』

私は彼に、穴から這い出るために私がしてきたことのすべてを話しました。私が実践してきたことはすべて良いことであり、有益なことでした。私が用いたうつの対処法、置かれている状況を変えるために私がとった戦略、私が試みたすべての外的な解決方法を聞いた後で、牧師は言いました。「でも、キリストがあなたのためにすでに成してくださったことに、あなたが日々どのように信頼しているかについては、まだ何も話してくれていないですね」と。

私はよほどぽかんとしていたのでしょう。牧師はまた同じことを言いました。

私は心の中で思ったのです。「それとこれと、何の関係があるって言うの。私は少しでもうつを良くしたくて、何をすべきか教えてもらいにここへ来たのに」と。

牧師と私はその後、イエスが私のために完ぺきな人生を生きたこと、私のために死んだこと、私のために墓からよみがえったことの持つ意味について話し合いました。その日私が完全に癒され、変えられて牧師室から出たわけではもちろんなかったのですが、それでも、私は新しい希望の種を確かに得て帰ってきました。そして月日が経つにつれ、その希望はどんどん成長していったのです。希望の種は私の心に深く根ざし、やがて実を結び始めました。

あの日私が牧師とした会話は、地を揺るがすようなものでもなければ、人が驚くような新しい考えでもありませんでした。けれどもあの会話によって、私は忘れていた真理を思い出すことができたのです。私の希望と喜びは、私に何ができるかにあるのではなく、イエスがすでに成してくださったことにあるのだと。

長年にわたって私がうつを克服するためにやってきたことの中で、私に永続する希望を与えてくれたのは、イエスが私のためにすでに成し遂げてくれたという福音でした。うつや絶望が恐ろしいのは、人から希望を奪っていくところです。未来はとことん暗く見えます。耳をふさぐような沈黙と孤独があります。そして終わりが見えません。

でも、福音が希望をくれるのです。

希望の福音

イエスは「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と弟子に言われました(ヨハネ16:33)。この世の人生に問題は付きものです。イエスは、ご自分に従うとはどういうことか、包み隠さず語られました。生きていくことは辛いことです。でも私たちの希望はイエスの成してくださったことにあります。イエスは世に勝たれたのです。

イエス・キリストの福音は、イエスが悲しみの人であったことを伝えます。イエスは、人生の痛みや苦しみをよく知っていました。誘惑、悲しみ、恐れ、病気、死を知っていました。拒絶、喪失、貧困、孤独、虐待を経験しました。私たちの流す涙で、イエスが理解されないものなど一滴もありません。イエスは私たちのすべての罪、恥、悲しみを十字架で負いました。私たちの重い罪責と罰をイエスが担ったのです。私たちが受けるべきだった神との断絶という苦しみを、イエスが味わいました。

『私たちは主のもとに行き、主が私たちの声に耳を傾けてくださること、私たちのことを気にかけてくださること、私たちを助けてくださることを知ることができるのです。』

しかし、罪のないイエスが、墓にとどめ置かれることはありませんでした。イエスは墓からよみがえり、罪と死を克服したのです。イエスの完全な贖いのわざに信頼することによって、私たちは永遠のいのちの希望を持つことができます。私たちはいつの日か、悲しみも涙もない場所で、永遠に過ごすことができるのです。

それだけではありません。私たちには、永遠の希望だけでなく、今この場においても、希望があります。イエスが成し遂げたことのゆえに、私たちは子として、神の家族に迎え入れられました。神は私たちの父です。私たちはキリストとともに相続人となりました。神のすべての約束は、わたしたちのためにあるのです。

私たちに必要なものすべて

これが何を意味するかというと、人生が辛いとき、私たちは恵みの御座に自由に完全に近づくことができるということです。私たちは主のもとに行き、主が私たちの声に耳を傾けてくださること、私たちのことを気にかけてくださること、私たちを助けてくださることを知ることができるのです。愛されている子として、神が私たちの必要をすべて備えてくださると信じてよいのです。神の私たちへの愛は、私たちの行いにかかっているのではなく、イエスがすでに成してくださったことにかかっていると、安心してよいのです。そしてこれに伴う約束があります。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ8:38-39)

私たちにはまた、イエスが私たちのうちで始められたみわざを完成してくださるという約束もあります。私たちが変えられる前に、イエスがみわざを止められることはありません。イエスは私たちが人生で経験するすべての痛み、悲しみ、涙を、私たちの益とご自分の栄光のために用いられます。私たちは決してひとりではありません。イエスは、私たちの弱さの中で力となり、イエスのために生きていくために私たちが必要とするすべてのものを与えると約束してくださっています。

私には、いつまたうつが襲ってくるかわかりません。イエスが言われた通り、世にあっては苦難があるのです。けれども私は、自分が誰に希望を置くかを知っています。絶望が私の心に重くのしかかるとき、私は勇気を出し、イエスがすでに世に勝ったことを思い出さなければいけないのです。そしてイエスが世に勝ち、罪と死を克服されたからこそ、イエスには絶望に満ちた心に希望をよみがえらせることができると、私は確信するのです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Hope for the Despairing Heart.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Hope for the Despairing Heart