異性との友情

サカ・アレグザンドレ・メンデス(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2024年 07月 02日  - 

異性との友情には様々な意見があります。試しに、周りに人に聞いてみてください。異性との友情に問題はないと考え、積極的に奨励する人もいるでしょう。異性との友情には懐疑的で、躊躇する人もいるでしょう。そして異性との友情に強く反対する人もいるはずです。著書『True Friendship(真の友情)』の中でヴォーン・ロバーツは、異性との友情(そしてあらゆる種類の友情)の問題の核心をついています。「現代社会の脅迫的なまでのセックスへの執着、そして、実際に性行為があるかどうかは別として、特別に親密な関係においては、たとえ同性同士であっても、性的な要素があっておかしくないという前提が、悲しいことに私たちが友情に対して懐疑的になるようにしています」1

性的に親密になってしまう危険や恐れが、異性間の友情が真の友情に発展する上での主な脅威です。性的な親密さは大きな懸念事項ですが、これが異性間の友情を考える上で一番のテーマとなってはいけないでしょう。異性間の友情も含め、私たちの友人関係を真実なものに保つためには聖書の知恵が必要です。下に挙げる指針は主に、異性との友情を求める独身者に向けて書かれたものです。

『性的に親密になってしまう危険や恐れが、異性間の友情が真の友情に発展する上での主な脅威です。』

友情とは何か

友情は定義するよりも説明する方が簡単でしょう。ただこの記事では、共通の趣味でつながっているだけの浅い関係について話しているのではないことをここで確認しておきましょう。私たちは霊的な友情について話しています。霊的な友情においては、①思いやりと②親密さというふたつの側面に注意を向ける必要があります。

箴言には、友情の文脈における思いやりについての記述が豊富にあります。箴言によれば、良い友人は人格形成を助けます(箴言27:17)。良い友人はたとえ耳に痛くても厳しいことを言ってくれます(同27:6, 9)。良い友人は困っている時に友を見捨てず、いつでも助ける準備ができています(同17:17; 27:10a)。友は友を気遣うのです。

聖書はまた、友情とは親密なものであるとしています。イエスは弟子を友と呼びました。イエスの話したことば(ヨハネ15:3)を通し、イエスが弟子たちを父なる神との親密な「内の輪」に招き入れられた直後に、弟子たちは正式に友と呼ばれています(同15:15)。神との友情は受肉したキリストとの間に限定されているわけではありません。アブラハムも神の友と呼ばれています(イザヤ41:8)。神はアブラハムを啓示の「内の輪」に招き入れたのです。神はアブラハムに御計画を啓示されました(創世記12-22)。そしてアブラハムは神を信じました(ヤコブ2:23)。親密さのあるところに友情があるのです。友情は親密なのです。

思いやる知恵

『結婚は友情よりずっと大きなものであるけれども、友情以下でないことも肝に銘じておきましょう。』

異性との友情において思いやりは不可欠です。思いやりこそ、霊的な友情を育む土台となるものだからです。聖書の命令の多くは思いやりに関係しています(「互いに」とある箇所を参照してください)。異性との友情における「思いやり」は、排他的な関係を築こうとしているわけではないことを忘れるとあらぬ方向に行ってしまいます。思いやりのある異性間の友情が育まれるときには、互いがもっている他の人間関係や責任によって引かれる境界線を尊重します。異性との友情が、結婚のみに許された排他性を求めるようになるなら、どちらかがこの境界線を超えているのです。異性との霊的な友情の祝福は、両者がキリストに似せられていくときにもたらされます。一方あるいは双方が、自分の存在意義や仲間、安全などの偶像を相手に求めるときにもたらされるのではありません。異性との友情を育むならば、キリストにある相手を友として肯定し、励ます形で思いやることを学ばなければなりません。そしてこれは道であり、処方箋ではないことを覚えておいてください。

結婚は友情よりずっと大きなものであるけれども、友情以下でないことも肝に銘じておきましょう。健全な異性との友情が結婚に発展する可能性はあります。異性との友情で思いやることを学ぶなら、結婚でおこってくる様々な困難に備えることができるでしょう。

親密になる知恵

思いやりは親密さを前提とします。相手の必要を知らずに、どうして思いやることができるでしょうか。逆に、親密でなくして、どのように相手の必要を知ることができるでしょうか。親密になるにも、多くの知恵を必要とします。私たちの文化がセックスであふれていても、独身者が異性の友人を求める上で気後れすることはありません。独身者も、ごく親しい友情の輪に異性の友人を招き入れ、適切な親密さを楽しむことができます。自分の弱さを見せるということは、思いやりを受けることにつながります。同時にナイーブにならずに、結婚でのみ許されている性的な境界線を越える危険や排他性を求める危険から目をそらさないようにしなければいけません。

福音

「聖書を福音として読むなら、友情を求める適正な動機、他者とうまく関わる真の力、そしてそれを実践する知恵が与えられます」と言ったロバーツは正しいのです。2 異性との友情において思いやりと親密さを楽しむ知恵は福音から来ます。信仰をもって福音に応答するときに、どのように思いやり、どのように適切に親密になるかがわかるのです。使徒パウロはエペソのクリスチャンに、神に倣って愛に歩むように命じました(エペソ5:1-2)。

異性との友情を育むとき愛のうちに歩む助けとなる以下の質問について考えてみてください。

『クリスチャンとしての愛が基礎にあるならば、私たちの親密さが罪深い情欲となることはないのです。』

  • 私は相手に仕え、思いやることを願っているのか、それとも利己的な期待や欲望を満たそうとしているのか。
  • 私はこの関係の中でクリスチャンとしての兄弟姉妹の愛を育んでいるのだろうか、それとも恋愛関係に発展することを夢見ているのだろうか。
  • 友人からの公の叱責に対して、私は敬虔に応答しているだろうか。それとも、適切な叱責の後に、友人から距離を置いているだろうか。
  • 私は他の人間関係にも心を開いているだろうか、それともこの特定の関係に友人の輪を絞ろうとしているだろうか。
  • 私は相手が他の交友関係を築いていることを喜んでいるだろうか。それとも、相手が他の交友関係を築いていることを気にしすぎているだろうか。
  • この友情の結果、私たちはともにキリストの似姿に成長しているだろうか。

愛のうちに歩むことこそ、肉の欲に対する対処法です(エペソ5:3以降)。犠牲的に愛していくことを求めるならば、異性との友情においてどのように思いやり、親密になるかを学ぶことができるでしょう。本物の愛が基礎にあるならば、私たちの思いやりが利己的な要求となることはありません。クリスチャンとしての愛が基礎にあるならば、私たちの親密さが罪深い情欲となることはないのです。

振り返りの質問

異性の友人を思いやる上での主な障害は何だと思いますか。異性との友情を清くとどめ、かつ成熟させていくために意図的に決断しなければならないことは何ですか。主への恐れに基づく異性との友情と、人への恐れに基づく異性との友情には、どのような違いがありますか。

脚注

[1] Vaughan Roberts, True Friendship: Walking Shoulder to Shoulder (Leyland, England: 10 Publishing, 2013), chapter 2, Kindle.

[2] Ibid., chapter 1, Kindle.


This article has been translated and used with permission from the Biblical Counseling Coalition. The original can be read here, Relationships: Opposite Gender Friendship.
この記事は「Biblical Counseling Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Relationships: Opposite Gender Friendship