神としてのあり方を捨ててまで

漢字の向こうに聖書が見える:2023年1月

ブラッシュ木綿子(著者)-  2023年 01月 01日 - 

今月の漢字は「聖」です。キリスト教ではかなり大事な一字ですが、「耳」、「ロ」、「王」のパーツでできています。耳と口はそのまま、耳の形、口の形なのですが、王は少し複雑です。

人のことばに聞き
その務めを果たす

一年生で習うキングの意味の王は、斧の象形で、武器を使って戦に勝ち、国を治めるようになった支配者の意味です。力の象徴のような漢字ですね。でも、六年生で習うこの聖の字の下にある王は、キングの王ではありません。したがって、成り立ちも違います。これは荷物を背負って自分の務めを正しく果たす人の象形だそうです。聖はこれに耳と口がつき、人の言うことばを聞いてその通りに務めをきちんと果たせる人、すなわち優れた人の意味になりました。

この成り立ちを見たとき、この優れた人とはまさにイエス・キリストのことだと思いました。聖書にイエスは「父が聖なる者とし、世に遣わした者」とあります(ヨハネ10:36)。聖書の「聖」は、「特別にきよめられた」「他のものとは区別された」という意味がありますが、イエスは父なる神のみこころを行うという、特別な使命を担ってこの世に派遣されたのです。

漢字の向こうに聖書が見える:聖
聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言9:10)

その使命とは、「人として完全に生き、他の人の罪のために死ぬ」ことでした。イエスはこの務めを正しく果たしたでしょうか。はい。聖書に、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」と書いてあります(ピリピ2:6-8)。イエスはまさに、漢字の意味でも聖書の意味でも、聖なる方なのです。

聖書には、「聖なる方を知ることは悟ることである」と書いてあります(箴言9:10)。仏教で使われるような「悟る」という言葉が聖書にあって面白いですね。仏教では人間の理性と知恵によって道を求め、真理を悟ることを目指します。仏門に入った時点で正式な「求道者(ぐどうしゃ)」となります。

キリスト教では、キリスト教に関心があって聖書の学びなどを始めたけれど、まだ入信していない人のことを「求道者(きゅうどうしゃ)」と言います。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言いました(ヨハネ14:6)。ですからこのイエスに出会えれば、求道生活は終わるのです。聖書の教える唯一まことの父なる神と、父が遣わされた聖なるしもべイエス・キリストを知ることが、道を見つけることであり、真理を悟ることであり、すなわち永達のいのちなのです。

虚しい世の中にあって、確かなもの、絶対なもの、永遠のものを求めている方はたくさんおられると思います。二千年前、自分のいのちを与えるために天から下って来て、黙々と十字架を背負い、任務を遂行してくださった聖なる方を、一人でも多くの人が知ることができますように。


「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

この記事は『クリスチャン新聞福音版』2023年1月号(No. 556)より、許可を得て転載しています。