漢字の「世」は十を三つ書いて下をつないだ形です。中国では昔、三十年を一世と言い、年数の長いことを表したそうです。「世」には他に、時の区切りの意味や、世、世の中という意味もあります。
私は十を三つつなげた形を見たとき、 ゴルゴタの丘を思いました。ゴルゴタは「どくろ」という意味で、イエスが十字架にかけられた丘です。イエスが死んだとき、イエスの両側にも死刑囚がいて、合計三本の十字架が立てられていました。「そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた」とある通りです(マタイ27:38)。ゴルゴタの丘にいた民衆や兵士、ユダヤ人指導者たちは一様に十字架上のイエスをののしり、あざけりました。「おまえは神のお気に入りではないのか」、「他人を救ったんだろう、自分も救ってみろ」、「十字架から降りてこい」などと叫んで、イエスを馬鹿にしたのです。イエスの両側にいた強盗も同じでした。けれども時間が経つに連れ、そのうちの一人は心変わりしたようです。ルカの福音書の記述をご覧ください。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。(ヨハネ3:16)
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:39-43)
ここに、ひとりの死刑囚が滅びずに、 永遠のいのちを得た過程を見ることができます。今月の聖書のことばに「神は…世を愛された」とあります。この「世」は単に世界というよりも、神に背いている人間社会の総体です。十字架の上でイエスを信じたこの強盗も、神に背いて生きてきたひとりでした。滅びて当然の死刑囚でした。でも神に愛され、御子を信じることができて、パラダイスに行くことができました。彼に善行をする機会はありませんでしたね。十字架の上で信じ、その日のうちにそのまま死んだのですから。彼の救いに、彼の行いは一切関係なかったということです。関係があったのはイエスの行いでした。イエスは人として生まれ、完璧に生き、人の罪を背負い、代わりに罰を受けて死にました。このような人の救いに必要な諸々のことを成すために、神はひとり子イエスを世にお与えになったのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)
今年は四月九日がイースター(復活祭)です。聖書の中でおそらく一番有名であろうこのことばを、イエスの死を覚え、よみがえりを記念して祝うイースターに、どうぞ味わってください。
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?