今月の漢字は「希」で、×印の縫い目と布の形で出来ています。縫い目が×印の刺繡を施した布は珍しく、多くの人が求めたことから、「まれ・ねがう」の意味になりました。この成り立ちを見て、ちょうどクロスステッチにはまっていた娘が、「クロスステッチの漢字がある!」と喜びました。しかも娘の作品を見た私の母から「あら可愛い。良かったら私にも作って」と頼まれ、新作を送ったという後日談があります。まさに成り立ち通りで、娘にとっては思い出の漢字となりました。
さて、聖書を語る上で欠かせない言葉に、「希望」があります。一世紀、弟子の宣教によってキリスト教会が各地にできていきましたが、今月のことばは、今のトルコの辺りにいたクリスチャンに宛てて、ペテロが書いた手紙のことばです。「あなたがたの信仰と希望は神にかかっています」(Iペテロ1:21)。
聖書は、よく知らないと、希望よりもむしろ絶望の書かと思われるかもしれません。聖書には「すべての者が(神から)離れて行き / だれもかれも無用の者となった。 / 善を行う者はいない。 / だれ一人いない」(詩篇14:3)、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)などと書いてあるからです。
あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。(Iペテロ1:21)
でも、このとことん悪いニュースとともに書かれているのが、最高に良いニュース、「福音」です。先ほどの「罪の報酬は死です」の後には、実は続きがありました。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。罪人の私たちに、イエスの十字架での犠牲のゆえに、永遠のいのちが与えられます。賜物ですから、私たちは受け取るだけで良いのです。先月も書いたように、私たちの救いに必要な諸々のことを成し遂げるために、神はひとり子イエスを世に遣わされました。
ですから、私たちの信仰と希望は神にかかっています。完全な「他力信仰」です。でもキリストは、阿弥陀仏のような、観念上の存在ではありません。歴史の中で本当に実在して、死んで、よみがえられた方です。
ペテロの手紙を受け取ったのは、弟子の宣教によってクリスチャンとなった人たちで、生前のイエスを知りませんでした。ペテロはこのように書いています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(Iペテロ1:8〜9)。
私たちも、聖書でキリストのことば、弟子の宣教を読むことができます。たましいの救いを得ることができるのです。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」(イエス・キリストのことば、ヨハネ5:24)。
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?