日本への引っ越しが決まった時、イギリス在住歴が八年近かった九歳の娘。一から漢字の勉強を始め、猛スピードで「幸」の字まで来た時、「うーん、この字は、土地とお金があったら幸せ、と覚えよう」と言いました。確かに「土」と「円マーク(¥)」の合成のようにも見えます。でも漢字の成り立ちの本には全く違った説明がありました。「幸」は、首が曲がって若死にする形と、逆さまにした人の象形で、若死にするはずが一転、その死を免れることから、しあわせ・さいわいの意味を表すというのです。「何だかとても消極的な幸せだなぁ」と思った私は、他の辞典も見てみました。すると、手枷の象形がそのまま「幸」という字になったとあります。幸いにも手枷をはめられる事態を免れることから、しあわせを意味するようになったのです。どちらの説明を取るにせよ、まず「不幸な状況」があって、それを免れて「幸い」なのですね。(今月の絵では漢字の元となったシンプルな手枷の象形をカラフルにデザインしました。)
私たちは、娘の覚え方のように「これとこれがあったら幸せ」と考えることが多いように思います。でも、聖書の教える「幸せ」は、実はこの漢字の成り立ちのような幸せです。罪のゆえに「死ぬ」と宣告されている人が一転、イエス・キリストの犠牲のゆえに永遠のいのちをいただくわけですから。
幸いなことよ / その背きを赦され 罪をおおわれた人は(詩篇32:1)
聖書に「幸いなことよ / その背きを赦され 罪をおおわれた人は」とあります(詩篇32:1)。聖書で最初に罪をおおわれた幸いな人はアダムとエバです。彼らはエデンの園という楽園に住んでいました。そこにはたった一本だけ、「食べたら必ず死ぬ」と警告され、神によって食べることを禁止されていた木の実がありました。園には他に美味しい食べ物がたくさんあったのに、二人はこの木の実を食べてしまいます。二人はこの後、どうなったと思いますか。神に、動物の皮の衣を着せてもらったのです。アダムとエバは「おおわれた」のです。皮を剥がれた動物は死んでしまいました。罪の無い動物が代わりに犠牲となることで、人の罪が赦されるという旧約聖書の原則が示されます。「必ず死ぬ」と言われていたエバが、「生きるものすべての母」とされ、「いのち」を意味する「エバ」という名をもらったのも、こ時点でのことです。死ぬはずだったアダムとエバは一転、「生きる者」として再出発を許されました。二人には、神がいつの日か罪の問題を解決してくださるという約束も与えられました。
アダムとエバと同じように、私たちも罪人です。手には手枷がかかっています。この現在の「不幸な状況」に気づき、悔い改め、神の約束を信じて、罪をおおってもらって生きる人が、昔も今も、聖書の言う幸いな人です。旧約聖書が繰り返し教える、動物のいけにえによる罪の贖いの制度は、やがて来るイエス・キリストの十字架での贖いを指し示しています。罪の無い神の御子が犠牲となり、動物の死では成し遂げられなかった完全な贖いを成し遂げることによって、人の罪は赦されます。これが、神の与えてくださる罪の解決です。聖書の提示するこの幸いを、皆さんはご存知ですか。
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?