赦す気満々の神?

漢字の向こうに聖書が見える:2023年9月

ブラッシュ木綿子(著者) - 2023年 09月 01日  - 

神様が先に愛してくれた
私はまだ謝ってないのに

今月の漢字は「罪」です。魚や鳥を捕る網の形(罒)と、広げた翼の形(非)からできています。鳥の翼が左右対称に反対の方を向いていることから、「非」には「背く」や「良くない」という意味があります。そこで「罪」は人の道に背くような悪いことをして法律の網にかかる人を表し、つみ・悪いしわざの意味になりました。

聖書の教える罪は、国の法律ではなく、神の律法に違反することです。イエス・キリストは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)と言いました。網にかかった鳥が自力では自由になれないのと同様に、奴隷も自分で自分を自由にすることはできません。昔、奴隷を自由にするためには、奴隷の所有者にその奴隷の価値(身代)を支払う必要がありました。このように代価を払って奴隷を自由にすることを「(あがな)う」と言います。イエスは生前、「(わたしは)仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」と言いました(マルコ10:45)。十字架で流されたイエスの血、十字架で死なれたイエスのいのちが、私たちを自由にするための、贖いの代価だったのです。

漢字の向こうに聖書が見える:罪
しかしまだ私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

自分の罪を認めるのはとても難しいことです。私たちは罪を恥じたり、そんな人間なのかと思われるのを恐れたりして、「私は罪ある者です」とか「私はこれこれの罪を犯しました」とは、なかなか言えません。でも、今月の聖書のことばを見てください。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。罪人のためにすでに代価を支払われた、赦す気満々の神に対してなら、「おっしゃる通り、私は罪人です」と認めることができるのではないでしょうか。

私の好きな英語の賛美に、「あなた(神)が先に愛を示してくださったのでなかったなら、私はいまだにあなたを拒んでいただろう」という歌詞があります。歌うたびに共感する歌詞です。私は二十数年前にある本を読んで、「あなたは罪人です」という真理と、「イエス・キリストが十字架で死んでくださったので、信じるあなたの罪は赦されます」という聖書のメッセージを両方知ることができ、「私は罪人です、神さまごめんなさい、ありがとう」と言うことができました。自分に対する神の愛が明らかでなかったら、結果は違っていたでしょう。

「罪を認めることは、絶望ではなく希望への扉である」とは、私が去年翻訳したキリスト教書籍の一文です。「罪」の網(罒)を戸に変えてみてください。罪から扉になりますよね。自分が網の下にいることを認めた瞬間、キリストのゆえに網は戸に変わるのです。扉ならば開けられます。皆さんも、キリストの十字架で示された、大きな大きな神の愛に信頼して、罪を認め、赦してもらって自由になりませんか。


「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?

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この記事は『クリスチャン新聞福音版』2023年9月号(No. 564)より、許可を得て転載しています。