今月の漢字は「名」です。「名」は「夕」と「口」からできています。「夕」は、月が山の上に半分出かかった形です。日が沈み、月が出始めた頃のことで夕方を指します。そして夕方暗くなると顔が見えず、大きな声で互いの名を呼び合ったことから、「夕」と「口」で「なまえ」の意味になりました。
今月の聖書のことばはイエス・キリストのことばです。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」。羊飼いは自分の羊を名前で呼びます。百匹いようが二百匹いようが名前を付け、責任をもって世話します。責任だけでなく、羊に対する深い愛情もあります。日々群れと関わり、それぞれの特徴を熟知しているので、どの羊にどの名前を付けたか忘れることはありません。
私たち家族はちょうど、新型コロナウィルスの出現に世界がオロオロしていた時期に日本に引っ越そうとしていました。そのため当初の予定はすべて狂い、私たちは結局スコットランドの牧場にあるコテージに、百日間居候することになりました。そこには羊がたくさんいて、子羊がとても可愛らしかたのを覚えています。でもいくら可愛いとは言え、名前を付けることはなかったし、まず私たちの羊ではなかったし、百日間、羊を見分けることのできないままに終わりました。牧場の居候と牧者の違いが浮き彫りになりますね。
牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。(ヨハネ10:3)
ヨハネの福音書の先ほどの箇所で、イエスは自分こそ良い牧者なのだと言っています。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(11節)。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています」(14節)。そして「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」とも言われました(10節)。
聖書は天地万物の創造主なる神を教えています。そしてイエスは、自分がこの神であることを示されました。日本では昔から、畏敬の念を抱かせるような大きな木や岩、山、太陽などに手を合わせます。私もクリスチャンになったのが二十二歳のときですから、その気持ちがわかります。でも信仰をもってから良く考えてみると、いかに神秘的であっても、やはりこうした自然が自分の名前を知っているとは思えません。神格化されても、やはり自然は自然。私の名を呼び、愛をもって私と関わり、責任をもって導き、自分を犠牲にして私にいのちを得させてくれる聖書の神とは、全く別物であると言わざるを得ません。
イエスは「わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています」と言っていました。イエスを知ることは、実は聖書の命令でもあります。「知れ。主こそ神。 / 主が私たちを造られた。 / 私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」(詩篇100:3)。羊に羊飼いが必要なように、自分にも守り手、導き手が必要だと感じられたなら、この主を「知りたい」と思うことが、この命令に従う第一歩だと思います。良い牧者を求める羊の願いは必ず叶えられます。求める者には与えられる、これが聖書の約束です。
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?