今月の漢字は「直」です。「直」は、「十」と「目」と「∟」の組み合わせです。「∟」の部分は何か悪事を働いてあちこち逃げ回る人の足跡で、角を右に曲がり左に曲がり逃げ隠れする様だそうです。しかし人間、十の目に見つめられれば悪いことができないということで、「直」は心が正しい、まっすぐ、の意味になりました。
この漢字は、人間の姿を実に的確に、また聖書的に表しています。心の正しい人はいるか、という問いに、聖書はきっぱりと「いない」と答えます。私たちは、ともすれば悪に傾く性質を持っていて、正しいことを、それがただ「正しいことだから」という理由だけでは、いつも選択できない弱さを持っています。十の目で見つめられて、やっと正しい選択をするのが人間なのです。
今月の聖書のことばは旧約聖書のヨブ記に書かれている、ある人間のセリフです。特定の人物ではなく、神に対して人である「私」のセリフと理解してください。この人はとても正直に「私は罪ある者で、真っ直ぐなことを曲げてきた」と言っています。この真実な告白も驚きですが、もっと驚きなのは、「しかし私は、当然の報いを受けなかった」(ヨブ33:27)と言っているところです。
私は罪ある者で、真っ直ぐなことを曲げてきた。しかし私は、当然の報いを受けなかった。(ヨブ33:27)
人間は誰しも罪ある者ですが、自分のことは棚にあげて勧善懲悪を叫ぶことが多いと思います。自分の罪は見逃してほしいけれど、他の人が真っ直ぐなことを曲げてきたのなら、その人はそれに見合う罰を受けて欲しい、というのが私たちの本音でしょう。それがこの人は、「当然の報いを受けなかった」と言うのです。
なぜでしょうか。その答えが次の節に書いてあります。「神は、私が滅びの穴に下らないように、私のたましいを贖い出してくださった。私のいのちは光を見ることができる」(同28節)。この人の当然の報いは滅びの穴に下ることでした。けれども神がそれを阻止され、その人のたましいを贖い出してくださったのです。「贖い出す」とは、奴隷となっている人の身代金を払い、その人を自由にすることです。罪の奴隷であったこの人を贖い出すために神が払った身代金は、十字架で流されたイエスの血、十字架で死なれたイエスのいのちです。イエスは人となった神ですから、これは神が自らを犠牲にして身代金を払い、この人を救ってくださったということなのです。
罪ある者が当然の報い(死)を受ける代わりに、受けるに値しない神の賜物(永遠のいのち)を受けることができるというのは、本当に驚くべきことだと思います。そしてこれが、聖書が私たちに伝えようとしている福音のメッセージです。神の正義は、十字架のゆえに、1ミリも妥協することなく、私たちに赦しと救いを提供することができます。ただ善を勧め、悪を懲らしめるだけでは成し得なかった、人を根本から変える大きな力が、福音にはあるのです。
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?