漢字の「背」は、北に肉月(にくづき)です。北は二人の人が背中合わせに並ぶ形で、太陽の方を向いた人に背中を向けると北向きになることからできました。これに体を表す部首がついて、「背」となります。私たちは普通、日当たりの良いのが好きですね。ひまわりでなくとも、本来向くべきは太陽の方だということです。それで、「北」にも「背」にも、背を向ける、逃げる、背くという悪い意味があります。背信、背任などの熟語に加えて、なぜ「敗北」と言うのか、こうした漢字の意味がわかると納得ですね!
私は、人が背中合わせに並ぶ形を見て、アダムとエバから始まる人類の歴史を思いました。聖書のいちばん初めの書物である『創世記』に、エバはアダムのあばら骨から造られたと書いてあります。頭の骨でも足の骨でもなく、ちょうど体の側面にある男性のあばら骨から女性が造られたところに、仕様は違っても、対等に並ぶ男女の関係が象徴されているように思います。人間は、本来互いに助け合いながら、同じ方向を見て歩んでいく存在だったと思うのです。また、神に造られた者として、ともに神を見上げて、神を礼拝しながら歩む仲でもあったでしょう。でも聖書を読むと、この「あるべき姿」は長く続きませんでした。
まず人は神に背き、エデンの園でたったひとつ食べてはいけないと命じられていた木の実を食べてしまいます。そして、それがきっかけとなり、夫婦間にも亀裂が生じました。相手を責めたり、それまで隠すところなど何もなかったのに、恥ずかしいと思うようになったりしたのです。その後の人類の歴史は、神との関係も、人間同士の関係も、「背き」によって崩れているのが特徴です。人間は、神に背を向け、人にも背を向けて、互いの間に壁を築いて生きています。今月の絵では、肉月を壁に見立て、背を向けた人をこの壁の上に座らせました。人間がこのような状態であれば、地球上に争いが絶えないのも当然ですよね。国家間の戦争だけでなく、家庭の中でも、小さな争いが毎日のように勃発しているのが、私たちの悲しい現実なのです。
憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。(箴言10:12)
でも、希望はあります!今月の聖書のことばに、「愛はすべての背きをおおう」とある通りです。イエスの弟子だったヨハネという人が、「神は愛です」と断言していますが(Iヨハネ4:16)、実際、私たちへの聖書のメッセージは、「愛の神が人間の背きをおおってくださる」というものです。これは、神ご自身が人となり、人の背きをその身に負って、人の代わりに十字架で罰を受けることによって達成されました。十字架を預言しているイザヤのことばと、十字架の説明をしているパウロのことばをご紹介して、今月は終わりにしたいと思います。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
ー紀元前八世紀に活曜した預言者イザヤの書より(イザヤ53:5)
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
ー紀元一世紀に、パウロがローマの教会に宛てた手紙より(ローマ4:25)
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?