「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、そして消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。
(ヤコブの手紙4:13-16)
ヤコブはプライドと大言壮語について、そしてそれらがいかに素知らぬ顔で現れるかについて語っています。「あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。」
知恵、権力、富という、自力本願の誘惑の三本柱が揃うと、究極的なプライドの形、すなわち無神論へと引き込む強力な誘因となります。自分自身を最高位に位置付けるための最善の方法は、自分より上にあるものをすべて否定することだからです。
高慢になると他の人を見下すことに夢中になるのは、このためです。C・S・ルイスはこう言っています。「傲慢な人はいつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前である。」(『キリスト教の精髄』195〜196頁)。
しかしプライドを保つためには、上に見上げるべきものが何もないと宣言してしまう方が簡単な場合もあります。「悪しき者は高慢を顔に表し 神を求めません。 / 『神はいない。』これが彼の思いのすべてです」(詩篇10:4)。究極的には、高慢な人は「神はいない」と自らを納得させざるを得なくなるのです。
その理由の一つとして、神の現実というのは、人生の細部に至るあらゆることにおいて、圧倒されるほど押し付けがましいことが挙げられるでしょう。プライドは、人生の細やかな、平凡な出来事はおろか、宇宙の運営にいたるまで、神が親密に関わってくることを許容することができません。
プライドは神の主権を嫌います。したがって、プライドは神の存在を嫌います。なぜなら、神は主権者であられるからです。それは「神はいない」という言葉で表現されるかもしれませんし、「私はクリスマスにアトランタまで運転して行こう」という言葉にさえ現れているのではないでしょうか。
ヤコブなら、「あなたには分かりませんよ」と言うでしょう。あなたはむしろ、こう言うべきなのです。「主のみこころであれば、私たちは生きて、クリスマスにはアトランタに行けるだろう。」
ヤコブが言いたいのは、あなたがアトランタに着くかどうか、またこのデボーションの最後まで生きるかどうかを決定するのは神である、ということです。これは自力本願のプライドにとって極めて不快なことです。このデボーションの終わりにたどり着くまで、自分が脳卒中を起こさないようにコントロールすることすらできないのですから!
あなたの将来の細部に至るまで、神の主権的権限によって管理されていることを信じないのは、大言壮語であるとヤコブは言っています。
大言壮語と戦う方法は、人生のあらゆる細部において神の主権に委ねることです。そして、私たちに変わってご自分の力強さを示し(II歴代16:9)、いつくしみと恵みで私たちを日々追ってくださり(詩篇23:6)、神を待ち望む者のために働かれ(イザヤ64:4)、私たちを整えて神の栄光のために必要なものをすべて備えてくださる(ヘブル13:21)という、神の無謬の約束に安らぐことです。
別の言い方をするならば、プライドの治療薬は、神の主権による将来の恵みへの揺るぎない信仰です。