カルバリにまわり道はなし

12月5日 第340日

ジョン・パイパー(著者)、楠 望(翻訳)-  2023年 12月 05日 - 

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

(ルカの福音書2:6-7)

神が全世界を支配しておられ、マリアとヨセフをベツレヘムに連れてくるために帝国全体を巻き込む人口調査も用いられるほどなら、神には宿屋に空室を用意することくらいできたはずだと思うのではないでしょうか。

その通り、できたはずです。間違いなくできたでしょう。さらには、イエスはお金持ちの家庭に生まれることだってできました。荒野で石をパンに変えることもできました。ゲッセマネで、万軍の御使いを呼ぶこともできました。十字架から降りて、自分自身を救うこともできたはずです。問題は、神が何をできたかではなく、神のみこころが何であるか、なのです。

キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられること、これが神のみこころでした。ベツレヘムのどの宿屋にもかかっていた「満室」の看板は、あなたのためです。キリストは「あなたがたのために貧しくなられました」(IIコリント8:9)

神はご自身の子どもたちのために、ホテルの空室や利用できる宿に至るまでも、すべてを支配しておられます。カルバリの道は、ベツレヘムでの「満室」の看板に始まり、エルサレムでの十字架における人々の唾や嘲りの言葉に終わるのです。

そして私たちは、イエスがこう言われたのを忘れてはいけません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23)

私たちはカルバリの道でイエスと出会い、こう言われるのを聞くでしょう。「しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します」(ヨハネ15:20)

「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と意気揚々と叫ぶ者に、イエスはこう答えられます。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(ルカ9:57-58)

確かに、神はイエスの誕生のために部屋を用意することもできたでしょう。しかし、それはカルバリの道においては、まわり道になったはずです。

 聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, No Detour from Calvary.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:No Detour from Calvary