聖書の権威と無誤性

マシュー・バレット(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2022年 08月 30日  - 

定義

聖書の権威と無誤性の教理は、聖書の霊感の教理から導かれる必然です。神の霊感による聖書が原典において主張していることはすべて完全に真実であり、聖書は神ご自身のことばとしての権威を持っています。

要旨

聖書の権威と無誤性の教理は、神の教理に基づいています。神が真実で信頼できるお方なので、聖書の原典に記された神のことばも真実で信頼できるということです。つまり、主イエスと使徒たちにとっての正典であった旧約聖書と、それに新約聖書を合わせた両約聖書が主張することはすべて真実だということです。原典が忠実に写され、翻訳され、伝えられている限り、写本においても聖書に誤りはありません。聖書の無誤性が意味するところは、聖書が主張するすべてのことは、クリスチャンにとって神のことばとしての権威を持つということです。


「聖書の信頼性は、キリスト教の教理体系を信頼する基礎であり、それゆえに、クリスチャンの希望と信仰生活の根幹をなしている」。ベンジャミン・B・ウォーフィールドのこの言葉は、聖書の無誤性の教理が教会にとってどれだけ重要かを教えてくれます。この教理を捨ててしまえば、キリスト教の全教理体系が不安定な基礎の上に置かれるのです。

なぜならこの教理がなければ、聖書がすべて真実であり完全に信頼できるという私たちの確信に疑問が生じるからです。当然、説教者も神のことばに対して「自分が説教している箇所が信頼できるかどうか、どのように知ることができるのだろうか」と疑問を持つでしょう。無誤性の教理があるかないかで、影響は多岐にわたるのです。神のことばを信頼できるか、聖書は神のことばか、聖書全体が神のことばか、といった問いに、私たちの信仰と歩みがかかっていると言えるのです。

『神が真実で信頼できるお方なので、聖書の原典に記された神のことばも真実で信頼できるということです。』

真理の神

既に見た通り、聖書の無誤性は神ご自身と関連づけて考えるのが適切です。無誤性は結局のところ、神の霊感の必然の結果だからです。聖書が神の息吹によるものだからこそ(IIテモテ3:16)、聖書が主張することはすべて真理なのです。息吹によりことばを生じさせた神は、真実にそうされました。真理そのものであられる三位一体の神が、そうなさらないわけがないからです(ヨハネ1:18; 8:40; 14:6; 17:3, 17; 18:37; Iヨハネ4:6)。

「真理そのものであられる三位一体の神が、そうなさらないわけがない」という主張に、聖書の教理は神の教理に基づいているという私たちの信念が反映されています。もし神が聖書の著者であられるなら、著者のご性質と息吹かれたことばの性質を分けて考えるべきではありません。結局のところ、私たちは神のことばについて語っているのです。聖書には多くの人間の著者がいますが、究極的に聖書は一人の著者、神によって書かれました。もちろん書かれた文字と神は別物ですが、そうであっても、書かれた文字は神の霊感によるものです。そこに神の御性質が反映されていても、何の驚きもないでしょう。ことばによって伝達されるのは伝達可能な神の流通属性であり、神の真実性もそのひとつです。真実の神であり、真理そのものであられる神は、真理のことばを語られます。聖書に書かれたことの真実性は、著者であられる神の真実性を反映しているのです。だからこそ詩篇の著者は、全き方である神は、常に真実を語られると言うことができ、これは自らの救いをみことばに求め、みことばを信頼する人々にとって大きな慰めとなるのです(詩篇119:96, 160も参照のこと)。

「でも待ってください、聖書は人の手によって書かれました。人間は誤りを犯す生き物ですよ」という反論もあるでしょう。人間が誤りやすいことは、確かに真実です。聖霊の導きがなければ、人間の著者によって誤りが混入したことでしょう。しかし、真理の御霊(ヨハネ15:26)とも呼ばれている神の霊が人間の著者を動かしたので(IIペテロ1:21)、彼らが語ったものは神が語ったことであり、人間の著者による誤りはないと言えるのです。これは、全能の神であれば何の問題もなくできることです。クリスチャンとして、子なる神が罪なく受肉し、ことばとして私たちに救いのメッセージを伝えてくれたこと(ヨハネ1:1, 14)を信じているのであれば、神が聖霊によって人間の著者を動かし、真理を語らせることは、神にとっては朝飯前と言えるのではないでしょうか。

イエスの聖書観

さらに、イエスとその弟子たちは、旧約聖書を常に全幅の信頼と尊敬の念を持って扱っていました。聖書の信頼性を疑っていた様子は一度もありません。イエスに反対していたユダヤ人たちでさえも、この点は同じでした。イエスとイエスに反対するユダヤ人は、旧約聖書の解釈をめぐって、あるいは、イエスが自分の言う通りの人物かどうかについては、強い意見の相違がありました。しかし問題となっている聖書本文が信頼できるかどうかという点で意見が食い違うことは、一度もありませんでした。聖書が信頼できる書物であるという前提がなければ、彼らの議論はそもそも起こり得なかったのです。

『真実の神であり、真理そのものであられる神は、真理のことばを語られます。聖書に書かれたことの真実性は、著者であられる神の真実性を反映しているのです。』

聖書の信頼性について、イエスはイエスだからこその固有の信頼性を加えます。それはイエスがほかならぬ子なる神だからです。私たちの聖書観が、イエスの聖書観と同じであるべきなのは当然と言えるでしょう。聖書の無誤性に関して、聖書の細部、及び全体に対する信頼を前提とした上で言えることは、聖書に書かれている神の契約の約束はすべて、自分の生と死とよみがえりにおいて成就したとイエスが語られるときに最も輝きを放つということです。イエス・キリストにおいて、書かれた神のみことばの真実性が証明されたのです。神の救いの約束は、ことばである御子において実現したのです。

ですから、神のことばはひとつもたがわず真理であるということは、福音それ自体が証明していると結論付けることができるのです。みことばの持つ、いのちを与える力及び真実性は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われたお方によって明らかにされました(ヨハネ14:6)。神は真実です。神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて成就しました。このこと以上に聖書の無誤性を肯定するものがあるでしょうか。

無誤性の意味するところ

とは言え、無誤性が何を意味し、何を意味しないのかを明確にする必要があります。神学者のポール・ファインバーグは無誤性を次のように定義しています。「すべての事実が知られているならば、聖書がその原典において主張していることは、正しく解釈されるとき、教理に関しても、道徳に関しても、あるいは、社会、物理、生命科学に関しても、すべて真実である」。この定義も、無誤性が何を意味し、何を意味しないのかを明確にするのに苦労しています。それは無誤性が、聖書の属性の中でも最も誤解され、歪められている属性だからです。この定義をもう少し詳しく見ていきましょう。

まず無誤性が原典に適用される点に注目しましょう。この条件は重要です。なぜなら、時として批評家は、写本に間違いを見つけ、それゆえに聖書は間違いだらけだと結論づけるからです。しかし私たちが聖書は誤りがないと言うときは、神の霊感により人間の著者によって書き記された原典を指して言っているのです(IIテモテ3:16; IIペテロ1:21)。霊感の産物が、誤りなく書き記された神のみことば、すなわち聖書ということになります。そして、原典が忠実に写され、翻訳され、伝えられている限りにおいては、写本もまた誤りなき神のことばということになります。(そして、私たちが持っている写本が非常に正確であることも記しておきましょう。)

さらに無誤性は、聖書が主張することは「すべて真実である」ことを意味します。あるいは、ケビン・ヴァンフーザーが言うように、「聖書が無誤であると言うことは、『聖書が肯定していることについて、著者は真実を語っていると信じる』という、信仰を告白することである」とも表現できるでしょう。聖書が主張し断言することは何であれ真実であり、信頼に足る方法で語られているのです。「すべて真実である」と言うことは、聖書の無誤性を主要な教理に関する部分に限定してはいけないという意味です。聖書の著者は、決してそのような限定を設けた上で聖書を記しませんでした。そうではなく、自分が肯定あるいは断言していることに関し、神は人間の著者である自分を通して真実に語られているのだと信じていました。ですから、聖書の無誤性はすべての分野に適用されます。例えば、ひとつ例を挙げれば、倫理的な教えに関しても、無誤性が適用されるのです。聖書の霊感が十全逐語霊感であるように、無誤性もまた十全逐語無誤性なのです。

無誤性と権威

『「聖書が無誤であると言うことは、『聖書が肯定していることについて、著者は真実を語っていると信じる』という、信仰を告白することである」』

今日、聖書の無誤性の主張には厄介な問題があります。例えば、聖書の霊感は認めても、十全逐語の無誤性は否定する人がいます。このような限定的な無誤性理解の人はよく、「私は信仰に関する限り、聖書が真実を語っていると信じています」と言います。こうした意見は一見福音的に聞こえます。しかしよく調べてみると、この見解は、聖書の主張がすべて真実であることを否定します。福音のメッセージに関しては真実であるが、それ以外のことに関しては誤りも含むとしているのです。皮肉なことに、このような立場にいる人も、あたかも聖書が最終的な権威であるかのように、「聖書のみ」の原則を高らかに主張します。

問題は、この見解では、教会が「聖書のみ」の原則を宣言したときに常に前提としていた、「聖書は誤りなき最終的な権威である」を主張することはできないということです。十全逐語の聖書の無誤性と、限定的な聖書の無誤性の間にある、重要な違いに注意してください。十全逐語の聖書の無誤性は「聖書はすべて、私たちの誤りなき権威である」と言います。限定的な聖書の無誤性はその代わりに、「聖書が信仰に関する事柄を扱っているときのみ、聖書は私たちの誤りなき権威である」と言うのです。

限定的な聖書の無誤性の立場では、主要な信仰に関する事柄においてのみ、「聖書のみ」の原則を(一貫して)主張できることになります。他の事柄に関しては、聖書は無誤ではなく、それゆえに、最終的な権威となることができません。これは改革者たちが「聖書のみ」の原則で意味していたことではありません。ルターがローマに抗議し、ヴォルムス帝国議会などで聖書の権威に関して独自の立場を主張したとき、ルターとローマの違いは色々とありましたが、特にこの聖書の無誤性に関する点で、主張の違いが浮き彫りとなりました。ルターは、ローマ教皇や教会会議の議員は誤ることがあるが、聖書には誤りがないと、大胆に主張しました。聖書のみが神の霊感によるものだからこそ、聖書は無誤であり、十分であり、キリスト者の最終的な権威となり得るのです。

今日の福音派のクリスチャンは、聖書を自分たちの権威であると主張しながら、部分的であれ全体であれ、聖書の真実性を否定する人々を警戒し、自らの立場を守らなければいけないのです。

参考文献


This article has been translated and used with permission from The Gospel Coalition. The original can be read here, The Authority and Inerrancy of Scripture. This essay is part of the Concise Theology series. All views expressed in this essay are those of the author. This essay is freely available under Creative Commons License with Attribution-ShareAlike, allowing users to share it in other mediums/formats and adapt/translate the content as long as an attribution link, indication of changes, and the same Creative Commons License applies to that material. If you are interested in translating our content or are interested in joining our community of translators, please contact The Gospel Coalition, INC.
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この記事は「THE GOSPEL COALITION」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Authority and Inerrancy of Scripture。このエッセイは「CONCISE THEOLOGY」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、THE GOSPEL COALITION, INCまでご連絡ください。
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