聖書の正典

マイケル・J・クルーガー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2023年 01月 17日  - 

定義

聖書の正典は、神が御民にお与えになった聖書の書巻がまとめられたものであり、神的性質や、民全体に受け入れられている点、使徒性(使徒による著作もしくは使徒と深い関連のある書巻)において、他の書物と区別されます。

要旨

聖書の正典は、神が御民にお与えになった聖書の書巻の集合体です。こうした書巻は比較的早くから神の民によってまとめられ、旧約聖書は遅くともイエスの誕生までに決まった形で存在し、新約聖書についても2世紀末までには、大体の合意がありました。新約聖書の正典が正式に決定されたのは確かに4世紀に入ってからですが、正典としてまとめられていく歴史的な過程を信頼するに十分な理由があります。新約聖書にどの書物が収められるかは、3つの要素でほぼ決定されました。つまり、神的性質があるかどうか、諸教会で受け入れられたかどうか、そして、使徒との関連があるかどうかです。新約聖書の書巻のほとんどは、パウロを含めた使徒による直接の著作であり、そうでないものは使徒自身の証言と密接な関連があります。


『初期のクリスチャンは新約の書巻に関して極めて早い時期から意見が一致していたのです。』

聖書は稀有な書物です。現代の多くの本とは異なり、聖書はさまざまな時代のさまざまな場所でさまざまな著者によって書かれた数多くの小さな書物から構成されています。当然ながら、こうした書物はどのように集められて一冊の本になったのかという疑問が生じます。いつまとめられたのでしょうか。誰が重要な決定を下したのでしょうか。そして、私たちはなぜその決定が正しかったと言えるのでしょうか。「聖書の正典」を考える際には、このような問いがすべて関係してきます。「正典」という用語は、神が御民にお与えになった聖書の書巻の集合体を指して使われます。

正典に関する疑問は、歴史的なものと神学的なものの2つに大別されます。正典に関する歴史的な質問は、いつ、どのようにという質問です。聖書は歴史のどの時点で、私たちが今『旧約聖書』と『新約聖書』と呼んでいる、一つのまとまった著作集として機能するようになったのでしょうか。また、どのような力、あるいは個人が、その過程に影響を与えたのでしょうか。神学的な質問は、正当性や権威といった問題に焦点が当てられます。私たちには、今収められている書巻が正しいと考える根拠があるのでしょうか。そもそも正しい書巻が手元にあるかどうか、知ることはできるのでしょうか。この記事では、以上の、歴史と神学という両方の分野の質問を簡単に取り上げます。

歴史的質問

旧約聖書に関しては、イエスの時代までに、すでに確立された著作集があったと考える十分な根拠があります。1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、ユダヤ人が受け入れていた旧約聖書の22巻の一覧を取り上げていますが、これは、現在私たちが持っている39巻と一致するように見えます(『アピオーンへの反論』1.38-42)。少なくともヨセフスにとっては、旧約聖書の正典は確定していたようで、「これほど長い年月が過ぎたにもかかわらず、誰もあえて付け加えたり、削除したり、一語一句変えようとはしなかった」(『アピオーンへの反論』1.42)とあります。

ヨセフスの証言は、もう一人の1世紀のユダヤ人哲学者による資料、すなわちアレクサンドリアのフィロンの著作によって裏付けられています。フィロンは、旧約聖書の正典が、「律法と、聖なる預言者によって告げられた神のみことば…そして詩篇」というように、三つに分類されていたことを示唆しています(『観想生活』25)。この三部構成は、旧約聖書が「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」(ルカ24:44)で構成されているというイエスのみことばとも一致しているように思われます。その他にも、ユダヤ教の『シラ書』(『集会の書』もしくは『ベン・シラの知恵』としても知られる)やクムランの断片的な死海文書(4QMMT)にも、旧約聖書を三部構成とする向きがあります。

1世紀の旧約正典の状態を知るもうひとつの方法は、新約の著者が旧約の書物をどのように用いたかを検討することです。新約聖書の著者は旧約聖書を頻繁に引用していますが、旧約正典の範囲に関して議論があった形跡は見当たりません。実際、現在の旧約正典39巻に含まれていない書物を、聖書として新約の著者が引用している例はひとつもありません。また、イエス自身、当時のユダヤ人指導者と多くの点で意見の相違がありましたが、どの書物が正典であるかについてはなかったようです。これは、もし旧約正典がまだ流動的であったならば、説明しがたい事実です。

『もし本当に神が聖書の背後におられるのなら、聖書自体が神ご自身の属性を備えていてもおかしくないということです。』

つまり、スティーブン・チャップマンが言うように、「紀元までに、ユダヤ教の正典は、絶対的な定義や範囲の限定はなかったにしても、ほぼ完成していた」のです(彼の論文「旧約聖書の正典とキリスト教会に対するその権威」137参照)。

新約の正典については、2世紀半ばまでに27書巻のうち22書巻が聖書として中心的に機能していたようです。一般的には、四福音書、使徒の働き、パウロの13の書簡、へブル人への手紙、ペテロの手紙第一、ヨハネの手紙第一、ヨハネの黙示録がその中核をなしていました。ペテロの手紙第二、ユダの手紙、ヤコブの手紙、ヨハネの手紙第二、第三などのような小さな書簡については、論議がありました。

それでも、2世紀以前から、クリスチャンは新約の書巻を聖書として用いていたようです。ペテロの手紙第二は、パウロの手紙を「聖書」と呼んでいます(Ⅱペテロ3:16)。同様に、テモテへの手紙第一5章18節では、「働くものが報酬を受けるのは当然である」というイエスのみことばが聖書として引用されています。このみことばと一致するのは、ルカの福音書10章17節だけです。

2世紀に入っても、新約の書巻が同じように用いられ続けたことが見て取れます。ヒエラポリスの司教パピアスは、少なくともマルコとマタイの福音書、第一ペテロ、第一ヨハネ、黙示録、そしておそらくパウロの書簡のいくつかを受け取っていたと思われます(エウセビオスの『教会史』3.39.15-16)。 2世紀半ばには、殉教者ユスティノスが確立された四福音書を所持しており、こうした書物は旧約聖書と共に礼拝で読まれていました(『第一弁明』47.3参照)。そして、2世紀末のリヨンの司教エイレナイオスの時代には、ほぼ完全な新約聖書の完成形が見られるようになります。エイレナイオスの正典には、新約の27書巻のうちおよそ22巻が含まれ、彼はこれを聖書とみなして1000回以上引用しているのです。

つまり、初期のクリスチャンは新約の書巻に関して極めて早い時期から意見が一致していたのです。新約聖書の小さな書巻をめぐる論争が解決されたのは、確かに4世紀になってからですが、新約正典の中核は、それより大分前からすでに出来上がっていたということです。

神学的質問

上記の歴史的証拠によって、正典がいつ、どのように成立したかについての疑問は解決したとしても、その権威と妥当性については、まだ疑問が残ります。正典に収められている66巻の本が正しいものであると、どうしてわかるのでしょうか。ある書巻が神から与えられたものであると教会が知る方法はあるのでしょうか。ここで、正典に収められているすべての書巻に共通する三つの属性について簡単に考えてみましょう。

『時代を通じて、大まかな、あるいは一般的な合意が形成されると期待することはできます。そしてこれこそ、歴史を通じて私たちが見出すものです。』

神的性質

最初に考えるべき属性は、しばしば見落とされる点なのですが、聖書が神から与えられた書物であれば、聖書内にその起源が神であることを示す証拠が含まれているはずだという考えです。宗教改革者たちは、これを聖書の「神的性質」または「神的指標」と呼びました。もし本当に神が聖書の背後におられるのなら、聖書自体が神ご自身の属性を備えていてもおかしくないということです。

結局のところ、私たちは、被造物が神からのものであることを、神ご自身の属性が被造物に啓示されているのを見て知ります(詩編19; ローマ1:20)。そうであれば、神の特別啓示である、書かれたみことばについても同様のことが期待できます。みことばに見られる神的性質の例としては、美しさと卓越性(詩篇19:8; 119:103)、力と効力(詩篇119:50; へブル4:12-13)、一致と調和(民数記23:19; テトス1:2; へブル6:18)などが挙げられます。

このような神的性質を通して、クリスチャンは聖書の中に主の御声を聞き、認識します。イエスご自身が「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます」と宣言された通りです(ヨハネ10:27)。

もちろん、ノンクリスチャンにはこのような神の属性が見えないため、聖書に神的性質があるという考えに反対するでしょう。しかし、人間は堕落によって腐敗し、罪によって暗くなっていることを忘れてはなりません。人間がこうした性質を正しく見てとるためには、宗教改革者が「聖霊の内なる証明」と呼んだものが必要です。キリストにある者は、聖霊が私たちの目を開いてくださるので、正典内の書巻に客観的に存在する神的性質を見ることができるようになるのです。

神の民全体が受け入れている点

御霊は個人に対してだけではなく、神の民全体に対しても働いておられることを認識することが重要です。したがって、神の民の集合体として、契約の民全体が、時の経過とともに神からの書物を認識するようになると考えるのは理にかなっています。そうであれば、どの書物が神からのものであるかを知る指針として、(旧約の時代においても、新約の時代においても)神の民の総意に注目できます。

『誰もが神の代弁者になれるわけではなく、神の代わりに語るように任命された人だけが正典の著者だいうことです。』

だからといって、神の民が正典をめぐって即座に絶対的に一致していたというわけではありません。どのような教理に対してもあるように、細かい点で不一致や意見の相違が存在するのが世の常です。しかし、時代を通じて、大まかな、あるいは一般的な合意が形成されると期待することはできます。そしてこれこそ、歴史を通じて私たちが見出すものです。

ヘルマン・リダーボスが論じたように、「キリストは、聖霊の助けと証明によって、教会に『この正典だけ』をキリストのものだと認めさせ、受け入れさせることによって、ご自分の教会を立て上げあられる」のです(H.N. Ridderbos, Redemptive History and the New Testament Scripture, 37) 。

権威ある著者

正典の最後の特徴は、著者が神に選ばれた者であること、つまり、神の霊感を受けた預言者と使徒によって書かれたことです。誰もが神の代弁者になれるわけではなく、神の代わりに語るように任命された人だけが正典の著者だいうことです。旧約聖書では、預言者や他に霊感を受けた人物がこれにあたります(ローマ1:2; Ⅱペテロ3:2)。新約聖書では、キリストの権威ある証人である使徒たちがこれに含まれます(マルコ3:14-15; マタイ10:20; ルカ10:16)。

ここで詳述することはできないのですが、私たちは十分な歴史的証拠に基づいて、聖書の中に収められている書物について、使徒または預言者まで出所をたどっていく、あるいは、少なくとも使徒や預言者の教えが書かれていると合理的に考えられる歴史的状況までたどっていくことができます。例えば、私たちはモーセ五書(聖書の最初の5つの書物)の著者はモーセであると信じており、ゆえに神からのものとして受け入れています。同様に、コリント人への手紙第一や第二のような書簡も、使徒パウロが著者であったと考えて受け入れています。また、へブル人への手紙のような匿名の書簡も、著者が使徒から直接情報を得たと考える十分な根拠があるので、受け入れることができます(へブル2:3-4; 13:23)。

結論として、私たちは旧約聖書と新約聖書の両正典の正当性に自信を持つことができます。これは、私たちが両正典が形成された歴史的過程について多くのことを知っているだけではなく、これらの書物が神からのものであることを私たちが認識できるように、神的性質、神の民全体による受容、権威ある著者という特徴を、神が正典に与えてくださったからです。

参考文献

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

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この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Biblical Canon。このエッセイは「Concise Theology」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、The Gospel Coalition, INCまでご連絡ください。
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