キリストの神性

ロバート・リーサム(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2023年 12月 19日  - 

定義

新約聖書は、イエス・キリストは神と等しく、神と同一の存在であり、神のみが成せる業を行なっていると主張しています。御子として、イエス・キリストは御父とは区別される存在でありながら、御父と聖霊と同一の存在でもあるのです。

要旨

新約聖書の中でイエスの神性は間接的ではあるものの至る所で言及されています。言及が間接的なのは、旧約聖書で神が唯一であることが力強く教えられているため、何ものであれ、神性を主張することは冒涜と見なされたからです。言及が至る所にあるのは、イエスが神と同一の存在であるという圧倒的な証拠が、ペンテコステ後の最初期の段階から、教会の考え、信仰、礼拝を支配していたからです。イエスの特徴として挙げられるのは、神を父と呼んだこと、そして自分が神と等しく信仰の対象であることを主張したことです。パウロは、イエス・キリストをその地位と存在において「ヤハウェ」と同一であるとみなしました。新約聖書全体がイエスを創造主、さばき主、救い主として見ています。これらはいずれも、神のみの成せる業です。イエスは礼拝の対象であり、初期のクリスチャンの賛美のテーマであり、祈りの中で頻繁に呼びかけられました。イエスは、御父と同一の存在とみなされているのです。

背景

旧約聖書の厳格な一神教の教えは、神以外のものからの、いかなる神性の主張も冒涜として排除されることを意味していました。神は唯一であり、その他のあらゆる宗教的な礼拝は偶像礼拝であることを、イスラエルの民は繰り返し警告されていました(申命記6:4; イザヤ44:6-8など)。

イエスと御父

『御子として、イエス・キリストは御父とは区別される存在でありながら、御父と聖霊と同一の存在でもあるのです。』

こうした背景を考えると、イエスが繰り返し神を父と呼び、またそれによって自分が(神の)子であると主張したことは、前代未聞であり、驚くべきことでした。旧約聖書において「神の子」という称号はメシアに、また時としてイスラエルの民に用いられましたが、個人に用いられたことはありませんでした。イエスは、神は父のような方であるという比喩や説明のために神を「父」と言ったのではなく、個人的な名として、神を父と呼んだのです。神が父であるとの啓示は、すべての被造物に対する一般的な神の父権を指しているのではなく、神ご自身の中にある父子相互の関係を指しています。イエスは神殿を「わたしの父の家」と言いました(ルカ2:49; ヨハネ2:16)。イエスの洗礼で、御父はイエスをご自分の子であると宣言されました(マタイ3:17)。イエスは自分が御父から遣わされたこと(ヨハネ5:30, 36; 6:38-40; 8:16-18, 26, 29)、御父とともに死人をよみがえらせ(ヨハネ5:24-29)、世をさばく(ヨハネ5:27)権威があることを主張しました。すべての人が御父を敬うのと同じようにイエスを敬うようになります(ヨハネ5:23)。御父はイエスに弟子を与え、彼らをイエスのもとに引き寄せます(ヨハネ6:37-65)。御父はイエスを知っており、イエスを愛し、イエスは御父から受けた命令を果たします(ヨハネ10:15-18)。逆にイエスは御父に祈ります(マタイ6:9; ヨハネ17:1-26)。普段イエスは神を「アバ」と呼びましたが(マタイ16:17; マルコ13:32; ルカ22:29-30)、これは親しみを込めて父を呼ぶアラム語の単語です。そしてゲツセマネの園と十字架上の極限状態で、イエスは御父を呼び求めました(マタイ26:39-42他; ルカ23:34)。

イエスは御父から与えられた業を成し遂げ(ヨハネ17:4)、世界が創造される前に御父と一緒に持っていて、また再び持つことになる栄光について語りました(ヨハネ17:5, 22-24)。また、御父とひとつであること、父と子が互いのうちに内在していることに思いを馳せます(同20節以降)。それ以前に、イエスは自分が御父と等しく同一の存在であること(ヨハネ10:30; 14:6-11, 20)と、御父との不可分の結びつきを擁護し、これが、御父がイエスのことばをもとにさばかれる基礎となっています(ヨハネ5:22-24; 12:44-50)。またイエスは、自分は父のもとに上っていくとマグダラのマリアに話しました(ヨハネ20:17; 16:10, 17, 28; 14:1-3も参照のこと)。

これとは反対に、イエスは自分が御父よりも劣るとも発言しましたが(ヨハネ14:28)、これはイエスが受肉し人性を持つことで、人間の限界に自らを制限した状態にあることを指しています。イエスが、御父がしておられることを見て行う以外は何もしないのはこのためです(ヨハネ5:19)。御父が死人をよみがえらせるときに、御子は与えたいと思う者にいのちを与えます(ヨハネ5:21)。御父はご自分のうちにいのちを持っておられ、御子にもいのちとさばきを行う権威を与えられました(ヨハネ5:26-29)。

イエスは、トマスには自分を知ることは御父を知ることだと言い、ピリポには「わたしを見た人は、父を見たのです」と言いました(ヨハネ14:6-9)。こうした発言の背後には、イエスと御父がひとつだという事実があるのであり(ヨハネ10:30)、イエスは御父とともに、弟子の信仰の対象です(ヨハネ14:1)。イエスを通してでなければ、だれも御父のもとに行くことはできません。ヨハネの福音書14から16章を通して、イエスは御父と聖霊との関係において自分のことを言及しています。イエスはこの三者が互いのうちに存在していることに触れています。御父はイエスの願いに応じて聖霊を遣わされます(ヨハネ14:16以降, 26; 15:26)。弟子が御父にささげる祈りも、イエスの名によってなされなければなりません(ヨハネ15:16)。

『新約聖書全体がイエスを創造主、さばき主、救い主として見ています。』

マタイの福音書でイエスは、御父と知識と権威を共有していることを主張しています(マタイ11:25-27)。H.R.マッキントッシュは、御父と御子の無制限の相関性を示すこの箇所は、「新約聖書の中でキリスト論に関して最も重要な箇所」であるとしています。4御子イエスは「これらのこと」(自分がしたことや教えたこと)を御父が知恵ある者には隠し、幼子たちに現わしてくださったことを感謝しています。御父はご自分を啓示することにおける主権者であると御子は言います。しかしその直後で、イエスはその権威が自分にもあることを主張するのです。御父を知ることは、御子が与えようと選んだ人に贈られる賜物です。御父が御子に関する「これらのこと」をみこころにかなった人に現すように、御子も御父と、御父から渡された「すべてのこと」を、心に定めた者に現します。さらに、イエスは御父の包括的な知識を完全に共有しています。御父だけが御子を知っており、御子だけが御父を知っています。イエスは父なる神の主権と知識を完全に共有しており、御子の知識は御父の知識同様、包括的で相互的なのです。ただ一方で、マタイの福音書24章36節のように、イエスが自分の再臨の時を知らないと言っている箇所もあります。その時がいつなのかは御父のみが知っています。これは、受肉した状態での、イエスの自発的な制限のためです。

つまり、御子イエスは御父とは区別されるものの、御父と一体なのです。これについてボーカムは、「イエスは、自分と御父が同一の位格であるとは言っていない。ただ御父と御子がともに唯一の神であると言っているのだ」とコメントしています。5この理解はイエスを預言者とは別にします。パウロはイエスには神の属性があると記しています。6

パウロは、ローマ人への手紙1章3-4節の御子に関する重要な記述の中で、御子は「肉によればダビデの子孫から生まれ」、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された」と、情報をふたつに分けて書き記しています。両方とも御子に関する言及です(3節)。神の子は受肉し、ダビデの家系から生まれましたが、聖霊によってよみがえり、新しく力ある神の子としての状態に変えられたのです。十字架前の神の子は弱く、「しもべの姿」をとっていました(ピリピ2:7)。しかし今やよみがえった御子は、父なる神の右の座に上げられ(使徒2:33-36; ピリピ2:9-11; エペソ1:19-23; コロサイ1:18; へブル1:3-4)、全宇宙を支配し(マタイ28:18)、すべての敵が服従するまですべてのものを司り(Iコリント15:24-26)、ついに死が滅ぼされるときに王国を父なる神に渡します(Iコリント15:24-28)。このように御子と御父の間には区別がありつつ同一性があるのです。

神と等しく同一の存在であるイエス

『至る所でイエスを主と呼ぶことによってパウロは、自分がイエスを神、父なる神と比べて全く遜色のない神と見ていることを示しているのです。』

イエスは、ユダヤの宗教指導者たちに冒涜の罪で訴えられた際に、自分が神と等しく同一の存在であることを主張します。イエスは自分を神と等しくしたことで(ヨハネ5:16-47)、また後には自分を神としたことで訴えられました(ヨハネ10:25-39)。訴えた者たちは冒涜の罪に対する罰則でイエスを脅しました。いずれの場合もイエスは、ユダヤの律法で複数の証言が求められることを引き合いに出しながら、自分が真理を語っていることを理由に訴えを否定しました。ヨハネの福音書14章1節でイエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言い、自分を神とともに信仰の対象としました。同様にヨハネは、福音書の冒頭でイエスを神と言及し(ヨハネ1:18)、福音書の最後ではトマスに「私の主、私の神よ」と告白させることで(ヨハネ20:28)、絵に額をつけるようにイエスの神性を記述したのです。

パウロはイエス・キリストを特徴的に「主」(キュリオス)と呼びました。これは旧約聖書における神の契約の名YHWH(יהוה)に対応してよく使われるギリシャ語です。至る所でイエスを主と呼ぶことによってパウロは、自分がイエスを神、父なる神と比べて全く遜色のない神と見ていることを示しているのです。パウロが説明も弁証もしようとせず、あまりにも意識せずにイエスを「主」と呼んでいるため、ハタードがコメントしているように、初期のクリスチャンの間でイエスを主と呼ぶことは日常的なことだったことが伺えます。パウロの手紙は、イエス・キリストの完全な神性を信じることが教会の基本的な公理であり、争点ではないことを証ししているのです。この点は、コリント人への手紙16章22節にある「マラナ・タ」(「主よ、来てください」)というアラム語による呼びかけによっても確認できるとハタードは指摘します。パウロはこの呼びかけを異邦人への手紙という文脈の中で、説明も翻訳もせずに用いています。会衆による礼拝の中の祈りの形式で、神に対する敬虔をもってキリストに呼びかけているのです。さらに、この祈りはパレスチナに起源を持ち、パウロが宣教を開始する以前からこの発祥の地を超えて幅広く用いられていたものだったでしょう。7ボーカムはこの祈りの起源が非常に早いことを記しています。8パウロはイエスを「キュリオス」と呼ぶことによって、神の名(YHWH)をキリストに適用しました。「説明も正当化もしていないところをみると、パウロの手紙を受けとる読者は、すでにこの語についてもその意味についてもよく知っていたことが分かる」のです。ローマ人への手紙9章5節でパウロはイエス・キリストをテオス(神)と明確に表現しました。ウィザリントンはヨハネについて、「主なる神について述べるのと同じようにイエスについて述べることを厭わない」と書きました。

へブル人への手紙の著者も、キリストの卓越性を論じる際、詩篇45篇を引用して、受肉した御子が神と同等の地位にあることを裏付けています。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、すべての御使いは御子を礼拝するのです(へブル1:1-14)。御子は御使いよりもすぐれた方なので、「御子は唯一の神と存在を同一にする」とボーカムはコメントしています。10詩篇102篇は天地万物の創造主である神に言及していますが、それがここで直接キリストに適用されているのです。T.F.トランスが言うように、キリストは「臨時代理人や神が不在の時の代役(替え玉)というわけではなく、受肉して現れたヤハウェ」なのです。11

さらにイエスの復活がイエスが主であることを明らかにします。12復活によりイエスの神性は福音の至高の真理となり、十字架の前後に起こった一連の出来事のすべてを理解する鍵となります。新約聖書のメッセージの中心は、決して切れることのない御子と御父の関係なのです。13

創造主、さばき主、救い主であるイエス

神のみに成せる業がイエス・キリストに帰せられています。ヨハネは、イエス・キリストは万物を創造した永遠のことばであり、神とともにあり、神であったと宣言しています(ヨハネ1:1-18)。ことばによらずできたものは一つもありませんでした。「初めに」あったことばは、「神とともに」あり(神と向き合って存在し)、ことば自身も神でした。これはつまりイエスの先在性を示します。イエスはひとり子の神です(18節)。パウロもこれに同調しています(コロサイ1:15-20)。へブル人への手紙1章1-4節も同じことを言っています。、御子は世界を造り、意図した目的に向かって世界を導いておられるのです。コリント人への手紙第一8章6節でパウロは父なる神と主イエス・キリストをそれぞれの創造の働きにおいて結びつけています。これにより、イエスが自然界の諸要素を支配して神性を現わしている福音書の出来事に光が当てられます(マタイ14:22-36; 他に詩篇77:19; ヨブ9:8; 26:11-14; 詩篇89:9; 107:23-30も参照のこと)。こうした出来事は神の国が近づいたしるしとして提示されていますが、世界の王であるイエスの主権も指し示しているのです。

『イエスは父なる神の御子ですから、キリストを礼拝することは同時に御父を礼拝することです(ピリピ2:9-11)。』

ヨハネの福音書5章22-30節でイエスは、自分を世のさばき主として表現していますが、これは神でしかあり得ないことです。マタイの福音書25章31-46節で、人の子であるイエスはすべての国の人々を義をもってさばきます(マルコ8:38; ダニエル7:14も参照のこと)。パウロは、私たちはみなキリストのさばきの座の前に現れなければならない(IIコリント5:10)と強調しています(Iテサロニケ3:13; 5:23; IIテサロニケ1:7-10)。

旧約聖書は、救いは人ではなく主なる神(ヤハウェ)のみから来ることを強調します(詩篇146:3-6)。14御使いが指定した「イエス」という名は「救い主」を意味します。イエスは「ご自分の民をその罪からお救いになるのです」(マタイ1:21)。癒しの奇跡は、イエスがいのちの主であることを示します。癒すのみでなく、イエスは罪と死から人々を救うのです。救いは神の御業であることから、パウロが繰り返しイエスを救い主と描写することは、イエスに神性を帰すことに他なりません(テトス2:11-13; 1:4; 3:6; ピリピ3:20; IIテモテ1:10; IIペテロ1:11)。新約聖書のキリストに関する教えは単にキリストの働きについてのものであるとする、かつて一般的だった見解は的外れです。ボーカムの言葉を借りれば、「神おひとりが持っておられる主権的な支配にイエスが参与することは、ただ単にイエスが何をしたかという問題ではなく、神との関係においてイエスが誰であるかという問題」なのです。つまり結果として、イエスが本質的に神と同一の存在であると見なすかどうかの問題となるのです。15

礼拝の対象としてのイエス

新約聖書の多くの箇所でイエス・キリストへの賛美が表現されており、キリストが礼拝の対象であることが示されています(ヨハネ1:1-18; へブル1:3; コロサイ1:15-20; ピリピ2:5-11; IIテモテ2:11-13)。新約聖書でなされているイエスの描写からすると、イエスへの賛美が当然要請されると言えるほどです。黙示録に記されている賛美は、特別な説明を必要とせず、多くの教会でよく知られていたであろうと思われることから、すでに出来上がっていた賛美の習慣に基づいているのでしょう。ハタードは、「キリストの栄誉をたたえて賛美を歌う習慣は、キリスト教運動の最初期の段階にまでさかのぼる」と考察しています。16さらに、ユダヤ系の教会から、こうした賛美の習慣に対する反対があったと思われる節は全くありません。17イエスは父なる神の御子ですから、キリストを礼拝することは同時に御父を礼拝することです(ピリピ2:9-11)。ウェインライトは新約聖書に記された、明確にキリストに向けられた頌栄(また、恐らくキリストに向けられていると思われる頌栄)を数多く列挙しています(IIペテロ3:18; 黙示録1:5b-6; ローマ9:5; IIテモテ4:18)。18ボーカムは、復活したイエスが「キュリオス」と呼ばれることを通して契約の神の名(YHWH)を冠していることは、「イエスが唯一無二の神の性質を持っていることを明白に示し、これを認識することは、まさにユダヤの一神教的伝統における礼拝が表現してきたことだ」と言っています。19

祈りもイエスにささげられます。ステパノは石打ちの刑に処されているとき、主イエスに叫びました(使徒7:59-60)。この時のステパノの叫びは十字架上のイエスのことばに似ています(ルカ23:46)。パウロは肉体に与えられたとげを取り去ってくださるよう、よみがえった主に祈りました(IIコリント12:8-9)。また「マラナ・タ」という一般的な呼びかけもしています(Iコリント16:22; 他に黙示録22:20; Iテサロニケ3:11-12; 使徒9:14, 21; 22:16も参照のこと)。救いはイエス・キリストを「キュリオス」(主)と告白することにかかっています(ローマ10:9-13; Iコリント12:1-3; ピリピ2:9-11)。

T.F.トランスが言うように、私たちがキリストの神性を信じる根拠は、福音書に記された様々な出来事や新約聖書の特定の記述によるのではありません。むしろ、

新約聖書に記された歴史における神の啓示の、一貫して福音的な構造全体の上に成り立っている。この「キリストの神性」の教理のうちに私たちが生き、これについて瞑想し、耳を傾け、その内側に入り込み、自分自身の中にそれを吸収し、創造主、救い主としてのキリストの力に自分の人生と考えの根本を変えられ、キリストによって救われ、キリストにあって神と個人的に和解させられるとき、私たちはキリストを主であり神であると信じるのだ。20

その結果、私たちはイエスを主として祈るのであり、神として礼拝し、賛美をささげるのだとトランスは続けます。イエスの復活の紛れもない証拠を目の当たりにして、トマスが「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)と答えたのも不思議ではありません。

脚注

[1] Arthur Wainwright, The Trinity in the New Testament (London: SPCK, 1963), 171–95.

[2] Peter Toon, Our Triune God: A Biblical Portrayal of the Trinity (Wheaton, Illinois: BridgePoint, 1996), 145–48.

[3] James Barr, “Abba Isn’t Daddy,” JTS 39 (1988): 28–47.

[4] H.R. Mackintosh, The Doctrine of the Person of Jesus Christ (Edinburgh: T.&T. Clark, 1912), 27.

[5] Richard Bauckham, Jesus and the God of Israel (Milton Keynes: Paternoster, 2008), 104.

[6] L. W. Hurtado, “Son of God,” in Dictionary of Paul and his Letters (ed. Gerald F. Hawthorne; Downers Grove: InterVarsity Press, 1993), 900–906.

[7] Larry Hurtado, One God, One Lord (Third edition; London: Bloomsbury T&T Clark, 2015), 110-12; idem, “Lord,” in DPL, 560–69

[8] Bauckham, Jesus and the God of Israel, 128.

[9] B. Witherington III, “Lord,” in Dictionary of the Later New Testament and its Development (ed. Ralph P. Martin and Peter H. Davids; Downers Grove: InterVarsity Press, 1997), 672.

[10] Bauckham, Jesus and the God of Israel, 24.

[11] Torrance, The Christian Doctrine of God (Edinburgh: T&T Clark, 1996), 51.

[12] Torrance, Christian Doctrine of God, 46. See also 52; Toon, Our Triune God, 159.

[13] Torrance, Christian Doctrine of God, 49.

[14] Wainwright, Trinity, 155–70 on Christ as Savior.

[15] Bauckham, Jesus and the God of Israel, 31 [italics original].

[16] Hurtado, One God, One Lord, 106.

[17] Ibid, 107.

[18] Wainwright, Trinity, 93–97.

[19] Bauckham, Jesus and the God of Israel, 200.

[20] Torrance, Christian Doctrine of God, 53.

参考文献


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