あなたには「心地よくない恵みの神学」が必要です

ポール・デービッド・トリップ(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2024年 01月 02日  - 

壊れた家

​​このひどく壊れた世界で生きていくことは大変です。神が意図されたようには機能していない世界のせいで、私たちは常にもどかしさを感じるし、いつも予期せぬことに直面します。この世界に生きているがために、ほぼ毎日、自分だったら絶対選ばないようなことに向き合わなければいけません。今この場での人生は、土台から崩れ始めた家で生活しているようなものです。まだ家の様相を呈してはいるものの、もはや意図されたようには機能していない、そんな家です。ドアはしょっちゅう開かないし、水回りも問題だらけ。電化製品をコンセントに差し込むたびに何が起こるかわからないし、屋根にいたっては、雨が降ってもいないのに雨漏りする、そんな家です。あなたと私が生きているこの世界は、まさにこの家のようなもので、本当にとんでもなく壊れた世界なのです。

『今この場での人生は、土台から崩れ始めた家で生活しているようなものです。』

さて、私たちの人生を複雑にする、この壊れた世界に対する反応は、ふたつしかありません。呪うか、嘆くか、です。正直になりましょう。呪う方が自然な反応ですね。私たちは、欠陥だらけの人と付き合わなければいけない現実を呪います。ちゃんと動かないものに対処しなければいけない現実を呪います。汚染や病気が襲ってくる現実を呪います。約束が破られ、関係が壊れ、夢が消える現実を呪います。痛みと苦しみの現実を呪います。この壊れた世界に生きなければいけない現実を呪います。こうした現実はすべて、私たちを怒らせ、イライラさせ、苦々しい思いにさせ、不平不満で溢れさせます。こうした現実を好まないのは当然です。もどかしく感じるのが自然なのです。パウロもローマ人への手紙8章で被造物のすべてが贖われることを待ち望んでうめいていると書いていますから。でも、呪うのは間違った反応です。私たちは人生が大変になるのでこうした現実を呪いますが、これは自分の快適さ、自分の喜び、自分の安楽ばかりを考える態度から出る反応です。つまり呪いは、根本的に自己中心なのです。

嘆きはもっと良い反応です。嘆きは、堕落の悲劇を受け入れます。嘆きは、世界が神の意図したようではないことを認めます。嘆きは、神の贖いの御手、回復の御手を求めて叫びます。嘆きは、他者の苦しみを認識します。嘆きは、「生きるのが大変だ」という以上の反応です。嘆きはこの宇宙に対する罪の影響を悲しみ、この壊れた世界をまた新しくしてくださる贖い主の到来を待ち望みます。嘆きは、恵みに促される反応なのです。

恵みの証拠

確かに、あなたの人生は問題だらけで辛いです。でもそれは計画が失敗したからではありません。このような人生こそが、計画なのです。あなたのうちで始められたことを、神が完成していっておられる最中だということです。 

私たちが「恵み」と考えることと、私たちの人生はあまりにもかけ離れています。私たちの人生は、神の愛として私たちが考えることとも違っています。私たちには、それが賢いことにも、良いことにも思われません。私たちが神の誠実さと愛を疑う原因にもなっています。「イエス・キリストを信じます」と初めて告白したときに予想した人生と違うからです。今の私たちの人生は、私たちが考える典型的な「良い人生」の定義に当てはまりません。それで私たちは時として、神は私たちのことを気にかけておられないのではないか、悪者が勝利しているのではないか、と考えてしまうのです。

神の子どもであれば、自分の人生はもっと楽に、もっと予測可能に、もっと快適になるのではないかと考えたくなるものです。でも聖書はそんなことを教えていません。その代わりに聖書は、困難は神が私たちのために持っておられる計画の一部だと明らかにしています。つまり、神の子どもであるならば、今自分が通らされている困難のせいで、神のご性質や約束、力や計画が失敗しているとは、決して考えてはいけないということです。今の人生が辛いからといって、神があなたに背を向けているなどと考えてはいけません。神は思ったほどには信頼できない方なのかもしれないと考えてもいけません。こういう考えに陥ってはいけないのです。人は神の善良さを疑い始めると、神に助けを求めなくなります。疑いを抱くようになった相手に、誰も助けを求めたりしないでしょう。

『あなたのうちで始められたことを、神が完成していっておられる最中だということです。 』

神は、この堕落した世界にあなたを住まわせておられます。それは、この世の困難を用いて、あなたのうちで始められたわざを続け、完成させようとしておられるからです。ということはつまり、あなたの人生で辛いことが起こるとき、神のご計画が中断されたり失敗したりしているわけではなく、むしろそれは神のご計画の一部なのだということです。私たちが神に恵みを叫び求めるとき、私たちの願っていた形では恵みを得られないことが、往々にしてあると思います。私たちは安心したり解放されたりしたくて恵みを求めます。そういう恵みが与えられることもありますが、多くの場合、この種の恵みはまだ与えられません。今私たちに必要なのは、私たちを変える恵みなのです。神の恵みは、いつも私たちにとって心地よいものではありません。自分に支配権があるのであれば決して選ばないような形で、神の恵みが与えられることが多いのです。

私たちは互いに、「心地よくない恵みの神学」を教え合い、励まし合う必要があるでしょう。永遠にたどり着くまで、この世にいる限りは、神の恵みは心地よくないことが多いからです。あなたや私が望む形ではないかもしれませんが、それこそ、私たちがまさに必要としている恵みなのです。神は真実です。神はあなたが住んでいるこの世界の困難を用いて、すでにお始めになった「あなたを変える」という愛のみわざを完成させてくださいます。これが恵みなのです!

永遠のこちら側、つまり、この壊れた世界では、呪いが自分の王国のデフォルトの言語であり、嘆きが神の国のデフォルトの言語です。あなたは今日、どちらの言語を話しますか。

この記事はポール・デービッド・トリップ著「365日の恵み浴」からの抜粋です。

「365日の恵み浴」の出版記念動画や抜粋文を紹介する記事は、『365日の恵み浴』のシリーズからご覧ください。


This article was translated by permission from the original English article published by Crossway. The original can be read here, You Need a Theology of Uncomfortable Grace.
この記事は「Crossway」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:You Need a Theology of Uncomfortable Grace