イエスはなぜご自分について黙っているように人々に命じられたか

グレッグ・ラニアー(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2024年 05月 21日 - 

バットマンは普段は裕福なビジネスマンという設定です。スパイダーマンは高校生で、カメラを持っています。スーパーマンには、そう、メガネがあります。お馴染みのスーパーヒーローはいずれも、普段の人物像の一枚下に(この一枚は確かに薄いのですが)、本当の姿を隠しています。

しかしながらイエスは、自分が何者かを言わないように、他の人に直接命令します。この「秘密主義」のモチーフはマルコの福音書1章24-25節で、イエスが汚れた霊に「黙れ」と命じたところで初めて現れ、その後マルコの福音書全体を通じて繰り返されます。しかしなぜイエスはこのようなことをするのでしょうか。自分についての知らせが広まることを望んでいたのではないのでしょうか。

この「メシアの秘密」に関する現代の議論は1800年代にまで遡ります。いまだに確固とした合意は得られていませんが、「口止め」あるいは「秘密主義」のモチーフが福音書の中でどのように展開されるかをたどることで、答えの概要を知ることができます。

啓示と黙秘のパターン

まず初めに、黙っているようにとのイエスの命令が、イエスが誰であるかを明らかにするとともに隠しもしている、より大きなパターンの一部を構成していることに気づくことが重要です。

『黙っているようにとのイエスの命令が、イエスが誰であるかを明らかにするとともに隠しもしている、より大きなパターンの一部を構成している』

イエスは一方では、秘密主義のようにはまったく見えません。イエスは目に見える形で聖霊を注がれ、父から「子」と宣言されましたし(マルコ1:9-11)、神の国や福音について、ガリラヤで公然と宣べ伝えました(1:14-15)。また、いくつもの癒しの奇跡を人前で行い(例1:34; 2:1-12)、嵐を静め(4:35-41)、5千人に食べ物を与え(6:30-44)、宗教指導者と公に討論し、自身の贖いの目的をはっきりと述べたのです(10:45)。イエスは大胆に自分のアイデンティティ、使命、メッセージを明らかにしました。癒された人に対して、自分の身に起こったことを人々に知らせるようにと命じたこともあります(5:19-20)。

他方で、イエスは時にこれとは正反対に、自分がどのような方であるかを隠しました。最も顕著な例はもちろん、異なる3つの聴衆に対して自分のことを話さないように厳しく命じたことです。

  • 悪霊・汚れた霊(マルコ1:24; 1:34; 3:12)
  • 群衆(特に、癒された人々)(マルコ1:43; 5:43; 7:33-36; 8:22-26)
  • 弟子(マルコ8:30; 9:9)

こうした命令と並行して記されているのがイエスのたとえ話です。私たちの直感に反することではありますが、マルコの福音書4章11-12節によれば、イエスがたとえで話したのは、人々から真理を隠すためでした。さらにイエスが繰り返し自分を指して使った「人の子」という表現は、(ダニエル書を読んだことのある人にとっては)イエスの高い身分をほのめかすものですが、外部の人はこれをただ「私のような者」とうい意味の間接表現として受けとる可能性が高く(特にアラム語において)、イエスの身分を隠してもいるのです。最後に、イエスは十字架前の裁判で、黙秘(14:61; 15:5)と自己開示(14:62; 15:2)の両方をしています。

ですから沈黙命令は、イエス自身が明かしたり隠したりする、より大きなパズルのピースなのです。実際、それぞれの沈黙命令は、イエスが自らを明かした重要な場面の直後になされています。マルコの福音書の描写において、こうした沈黙命令がどのような目的を果たしているのかを考えてみましょう。沈黙命令は聴衆に応じて、特に、「部外者」(イエスのそばに集まっていた、いわゆる弟子ではない人々)と「内部者」(弟子たち)との間で、違う役割を果たしているように見えます。

では前者から見ていきましょう。

部外者に対して(悪霊と群衆)

悪霊に対するイエスの「黙れ」や自分のことを知らせないようにという命令(マルコ1:24; 1:34; 3:12)は、こうした霊がイエスは「神の聖者」である(1:24)、「神の子」であると叫んだ直後になされました。イエスは「彼らがイエスのことを知っていたから」こそ、ものを言うのを禁じたのです(1:34)。こうした霊は超自然の存在として、イエスの真相(神のもとから来た聖なる方)を知っていたようです。イエスは、この段階で自分の真相が知られること、もしくは悪霊によって自分のアイデンティティが明かされること、あるいはその両方を望まなかったのでしょう。

『イエスは、この段階で自分の真相が知られること、もしくは悪霊によって自分のアイデンティティが明かされること、あるいはその両方を望まなかったのでしょう。』

イエスから「だれにも何も話さないように」(マルコ1:43)や「だれにも言ってはならない」(7:36)と命じられた、奇跡にあずかった様々な人々、あるいは群衆に対しては、「秘密主義」のモチーフはまた違った役割を果たしています。イエスが登場するや否や、イエスの教えや奇跡のことが山火事のように言い広められました。これに伴い、イエスに関するあらゆる憶測が飛び交いました。「エリヤだ」と言う人、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」という人(6:15)、バプテスマのヨハネのよみがえりだと言う人(6:14; 8:28)、そしてエルサレムに王朝を再建するダビデの家系の王だと言う人(11:10)などがいました。

様々な奇跡の直後になされたイエスの沈黙命令には、ふたつの目的があったと思われます。ひとつは、群衆が増え広がり続けるスピードを抑え、少しでも長く各地を旅することができるようにするためです(マルコ6:53-56など)。実際、イエスがひとりになりたいと願っていても、群衆が押し寄せて「隠れていることはできなかった」(7:24)という事態がマルコの福音書でよく見受けられます。もうひとつは、自分に関する誤った情報が広がるのを防ぎ、敵対者が疑念を抱いたり(6:14など)、定められた「時」が来る前に事態が収集不可能になったりするのを避けるためです。しかしながら皮肉なことに、「彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広め」ました(7:36)!

言い換えれば、部外者にとって「秘密主義」のモチーフは、イエスの真相を明かす適切な時が来るまで、イエスが何者であるかと何者でないかを隠す役割を果たしているのです。

内部者に対して(弟子たち)

イエスの弟子たちに対して、沈黙命令はまた別の形を取ります。最初の例は、ペテロがイエスはキリストであると宣言した直後です(マルコ8:29)。これに対しイエスは「自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒め」ました(8:30)。ふたつ目の例は変貌の場面の後で(9:2-8)、イエスは「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない」と命じました(9:9)。両方とも、イエスが「キリスト」(8:29、ペテロの言葉)であり、「わたしの愛する子」(9:7、御父のことば)であるという、イエスのアイデンティティを明かす重要な場面です。

なぜ沈黙が命じられるのでしょうか。

地上の働きの中でイエスはこの段階から、「ご自分に起ころうとしていること」(10:32)を弟子たちが理解するようにと、「はっきりと」(8:32)話し始めました。イエスは3度、大衆の期待に反し、メシアの使命には拒絶と死とよみがえりが伴うことを明確にしました(8:31; 9:31; 10:33-34)。確かに、イエスは奇跡を行う者であり、「キリスト」であり、「神の子」です。けれども重要な「ネタばらし」は、イエスが罪のために死ぬために来た、ということなのです。

問題は、弟子たちがそれを一向に理解しないことです。ペテロはイエスをいさめ、その結果イエスに叱られます(マルコ8:32-33)。「弟子たちにはこのことばが理解できなかった」のです(9:32)。そしてヤコブとヨハネは将来の特権について口論します(10:35-41)。本当に、マルコ全体を通して弟子たちの理解の遅さと心の頑なさは明らかです(4:13; 6:52; 8:17; 9:19)。

『部外者にとって「秘密主義」のモチーフは、イエスの真相を明かす適切な時が来るまで、イエスが何者であるかと何者でないかを隠す役割を果たしているのです。』

ですから、イエスが弟子たちに沈黙を命じるのは、イエスの明らかな自己啓示にも関わらず、それでもまだ弟子たちが理解していないからなのです。内部者に対する「秘密主義」のモチーフは、イエスがどのようにご自分の真相を隠されたかを際立たせるものではなく、むしろイエスが明らかにされたことを、内部者がどこまでも鈍く、理解しないことを示すものとなっているのです。イエスが誰であるかを隠しているのはイエスではなく、彼ら自身の心なのです。

このように見てくると、マルコの福音書16章8節に納得がいきます。イエスのよみがえりの後でさえ、女性の弟子たちは「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。マルコの福音書は沈黙で終わるのです。

読者に対して

まとめると、イエスの沈黙命令には、自分に関するどのような情報が広がるかと、どの時点で広がるかを制御する目的があったと思われます。イエスはメシアであり神の子ですが、それが完全に明かされるのは、イエスの死とよみがえりにおいてなのです。それまでは誤解がはびこり、結果、悪霊は叫び、群衆は手に負えなくなり、弟子たちは愚鈍な発言を繰り返すのです。

では、マルコの福音書の読者である私たちはどうでしょうか。私たちは冒頭からイエスが「キリスト」であり、「神の子」であることを知っています(マルコ1:1)。そして、私たちは福音書がどのように終わるかも知っています。

しかしながら私たちも、往々にして理解が足りません。私たちも群衆のように、素晴らしいことをしてくださるイエスに惹かれつつ、苦しみを伴うイエスの召しは無視するかもしれません。また弟子たちのように、自分の思い描くキリストは求めつつ、十字架で死ぬキリストは求めないかも知れません。あるいは私たちも、神の子について「だれにも何も言わないでいたい」と思うかもしれません。

だからこそ、マルコの福音書の「秘密主義」のモチーフによって、もはや秘密がないことを思い起こしましょう。私たちは、イエスが誰であるかが完全に明かされた後に生きているのです。隠されていることはもう何もありません。

ですから私たちは、イエスについて黙っていないでいましょう。


This article has been translated and used with permission from The Gospel Coalition. The original can be read here, Why Did Jesus Command Others to Be Silent About Him?.
この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Why Did Jesus Command Others to Be Silent About Him?