あなたは自分のことを神学者だと思っていますか。恐らく、そう思っていないでしょうね。私も長年、そう思っていませんでした。
でも振り返ってみて思うのは、私は神学が何であるかを全然わかっていなかったということです。私は神学などというものは大体、オタクっぽいクリスチャンの聖なる趣味だと思っていました。堅物の学者が聖書の注解書を書いてくれるのはありがたいです。でもクリスチャンの真の信仰生活は心と行動に現れる、というのが私の信念だったのです。
それが大学2年か3年のとき、それまで気づかなかった詩篇の一節に目が留まったのです。「主のみわざは偉大。/それを喜ぶすべての人に 尋ね求められるもの」(詩篇111:2)。[訳注:「尋ね求められる」の英訳は「studied」(研究される、学ばれる)です。]
これには驚きました。「尋ね求める(研究する、学ぶ)」という動詞が使われるとは思わなかったからです。「認められる」や「覚えられる」、「祝われる」ならうなずけますが、「尋ね求められる」ですって?キリスト教は楽しいものではなかったのでしょうか。なぜ聖書まで、試験があるかのような書き方なのでしょうか。
私は知らなかったのですが、キリスト教では学びはいつだって行われるはずだったのです。
好きだから学ぶ
考えてみてください。私たちは自分の好きなことを研究しますね。
私は子どもの頃、マイケル・ジョーダンの統計データを研究しました。数字が好きだったからではなく(数学は大嫌いでした)、ジョーダンの大ファンだったからです。これはおかしな例かもしれませんが、でも、普遍の真理を示していると思います。我々人間は、自分の好きなものについて知りたいものです。私は勉強が好きだったからジョーダンの統計データに没頭したわけではありません。誰かに強制されて研究したのでもありません。いいえ、私は自分の尊敬するヒーローについてできるだけ多くのことを学びたかったから、ジョーダンの統計データを研究したのです。
一方で、次のことも想像してみてください。あなたが私に、私の妻のことについて質問したとします。それで私が目に涙を浮かべ、「あぁ、彼女は最高なんですよ。今まで知り合った女性の中で最も素晴らしいのです!彼女はオレゴン出身で、綺麗な赤い髪をしていて、チョコレートはきらいです」と答えたとしましょう。本当はバージニア出身で茶色い髪でチョコレートに目の無い私の妻は、私がこんな返答をして喜ぶわけがないですよね。当然です。私が妻について一日中べらべらとしゃべり続けたとしても、それが真実の描写でないならば、彼女には侮辱と感じられるだけでしょう。
私たちは自分の英雄や好きな人に関してはこれほどまでに注意深く研究し、正確に描写しようと気をつけるのに、なぜ創造主について語るときには無頓着なのでしょうか。
よく考えよう
ここまで見てきたように、旧約聖書の詩篇は私たちに、注意深く学ぶ姿勢でみことばに臨むように教えています。新約聖書も同じです。マタイの福音書22章でパリサイ人がイエスに質問するところを見てみましょう。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」(マタイ22:36-37)
私たちの多くがこの箇所を知っており、「心を尽くし、いのちを尽くし」の部分を愛しています。けれどもそこで止まってはいけないのです。重要な第一の戒めには知性を尽くして神を愛することも含まれると、イエスは主張しているのですから。
この「知性」の部分において、あなたはどうでしょうか。注意深く熱心に学ぶ姿勢で聖書と向き合っていますか。ゆっくり、じっくりと読み、よく考え、真剣に学ぶ心構えでいますか。
使徒の働き17章で、パウロとシラスはテサロニケで起こった迫害を逃れ、ギリシャ北部の町ベレアに着きました。そこでユダヤ人の会堂に入り、イエスがキリストであることを宣べ伝えました。聴衆はどのように反応したでしょうか。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」とあります(使徒17:11)。
ベレアのユダヤ人たちはただボーっと話を聞いていたわけではないのです。パウロの言うことをヘブル語の聖書と照らし合わせて調べたのです。ルカは、使徒の教えを言葉通り受け取らないと言って彼らを責めているのではないことに注目してください。むしろ誉めているのです。立ち止まり、ゆっくりとみことばを学ぶベレア人の姿勢は、彼らの素直な性格を表しているのです。彼らは知性を尽くして神を愛しているのです。
学びは礼拝
ローマ人への手紙9-11章は、聖書全体の中でも最も重みのある箇所です。神学のプールの一番深いところと言っても良いでしょう。けれどもここで、パウロがどのように結んでいるかを見てください。
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。……すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33, 36)
何がパウロの心をとらえ、礼拝に駆り立てたのでしょうか。文脈から答えは明らかです。教理です。教理がパウロを喜びに駆り立てたのです。パウロの神学が花火のように頌栄となって炸裂したのです。
私たちは神を賛美するために神について学ぶのです。知らないものを賛美することはできないからです。友よ、どうか、神学が実用的でないとか、気を散らすだけだとか、礼拝の邪魔になるとか、宣教の妨げになるとか、そんなことを誰に言われても信じないでください。どんな良いものでも悪用される可能性はあるものですが、神学の目的は人に賢くなったと感じさせることではありません。優越感を得させることでもありません。神学の目的は人を礼拝にかき立て、愛を深め、宣教の思いに燃え立たせ、人生を支えることなのです。
なぜなら、苦しみがあなたの人生に不意に訪れ、どん底に突き落とされたとき、あなたには確かで堅固な拠り所があるかないかのどちらかだからです。
神学者なら、良い神学者を目指そう
ある意味で、神学者になるために必要なのは、神についての意見があること、それだけです。あなたにとって「神」がどのような存在であれ、それについてあなたが考えたり発言したりした瞬間に、あなたは神学をしているのです。
したがって本当の問題は、あなたが神学者であるかどうかではなく、良い神学者であるかどうかなのです。
あなたはより深く礼拝したいですか。より豊かな喜びが欲しいですか。讃美歌の歌詞のように、今日を生きる力、明日への明るい希望が欲しいですか。そうであれば、学ぶ者の姿勢で聖書に向かい、著者である神に素晴らしいことを教えてもらいましょう。聖書という海の表面をジェット・スキーで駆け抜けてはいけません。スキューバダイビングの装備をつけましょう。海に潜って、聖書のすばらしく不思議な世界を探索するのです。
私の大学で牧会していたダン・フリン先生は、「聖書は私が今まで読んだ本の中で、一番私の心を読み当てる本だ」とよく言っていました。聖書をよく学び、マスターすることです。いや、それよりも、聖書の中に身を沈め、聖書に自分をマスターしてもらいましょう。