私と妻のジルは毎年、自閉症の娘キムを連れて、障害を持つ家族のためのキャンプに参加しています。約100人のボランティアが自費で参加し、私たちのような家族のために自分の時間を1週間、ささげてくれます。ジルはこのキャンプに行くのが大好きです。自分の境遇を理解してくれる人たちとともに時間を過ごすことで、心が元気になるからです。
数年前のキャンプの初日、ジルはケイラというボランティアと仲良くなりました。けれども翌日、ケイラの一週間は悪い方向に向かってしまいました。食事の列に並んでいたとき、あるキャンパーの母親が、ケイラが自分の子育てについて否定的なことを言っているのを聞いたのです。その母親はキャンプの責任者に苦情を言い、責任者はケイラを呼び出して事情を尋ねました。ケイラには、この母親が何を言っているのか見当もつきませんでした。母親の悪口を言った覚えはまったくありませんでした。けれども、事態はすぐにほとんどのキャンプのボランティアに知られることとなりました。キャンプのリーダーたちはできる限り最善の形でこの問題に対処しましたが、ケイラには暗雲が立ち込めたのです。
翌朝、ケイラが取り乱した様子でジルと私のところにやってきました。身に覚えのないことで謝ることはできません。暗雲が立ち込めた状態で、喜びをもって奉仕することは困難でした。彼女は自分の働きは終わったと感じました。けれども私は、彼女の働きがまったく新しいレベルに上げられていることを知っていました。
私は彼女に言いました。「こうなる前、状況は良かったですよね。あなたは時間とお金をささげ、感謝され、人を助ける喜びを得ていたんです。今、あなたは名誉の代わりに不名誉を受け取っています。感謝の代わりに、誤解や、もしかしたら誹謗中傷さえ受けています。これは惨めな道です。でもこれこそ、イエスが歩まれた道です。あなたはキリストの苦しみに入っているのです」
下向きの上昇
話しながら私が心に描いていたのは、使徒パウロの教えの一部で私が「Jカーブ」と呼んでいるものです。パウロはその著書全体で、イエスの道が死に向かって下降した後、復活に向かって上昇したことを回想しています。しかしながら私たちは、パウロがクリスチャンの歩みを、この福音、つまりイエスの死と復活を再現するものとして頻繁に描写していることをよく忘れてしまいます(ピリピ1:29; 2:5-9参照のこと)。イエスの死と復活の道のりのように、私たち自身の人生もまた、下向きの上昇という、Jの形を取るのです。
このことが最も簡潔に表現されているのがピリピ人への手紙3章10節で、パウロは「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり」、復活に達したいという望みを述べています。パウロはその後、エルサレムからローマへと希望に満ちた旅をし、あらゆる種類の迫害の中でイエスの死を追体験しました。けれども使徒の経験は死にとどまりません。福音の証し、人々の回心、和解、その他多くのことを通して、キリストの復活にもあずかっているのです。
被害者から勝利者へ
ケイラの話はこれよりずっと平凡なものですが、その中にも私たちはこのJカーブが描かれていることを見て取ることができます。ケイラは奉仕の中で謙虚にさせられました。力を失っています。そしてこれが福音に入ることであると理解し始めています。Jカーブの一番下の部分で、福音はケイラを救うものから、ケイラの人生の中心へと移るのです。キリストの苦しみにある交わりを受け止めることで、ケイラの週で最悪だった部分は完全に変えられました。ケイラの物語は再構築されました。ケイラはもはやケイラの物語を生きているのではありません。彼女はキリストの物語の一部となったのです。
今や、ケイラを非難した母親は、ケイラの一週間を台無しにした人ではなく、ケイラをキリストの物語に引き入れた人になりました。ケイラの焦点は、過去にされた仕打ちから、これから神が何をしてくださるかに移りました。父なる神から苦しみを受け、ケイラはこの後も週を通じて明るく奉仕し続けることでしょう。
傷ついた評判や無意味に思われる犠牲など、否定的な見方がキリストとともに死ぬことで取り除かれたのに対し、キリストともに復活することは、ケイラに心痛の先にある働きという肯定的な見方を与えました。他の人が自分に何をしたかということから、彼女の苦しみを通してキリストは何を啓示してくださったかにケイラの焦点が移るにつれ、彼女はキリストに似せられていきます。ケイラは被害者から勝利者になるのです。
神の用意される復活がいつ、どのような形でもたらされるのかを、ケイラは正確に知らないかもしれませんが、彼女がイエスの道を歩んでいるがゆえに復活があることを、彼女は確実に知っています。そして復活が、まさに彼女に起こったのです。ケイラはその後もずっとキャンプに行き続け、今はリーダーのひとりになっているのですから。
人生の再構築
イエスに従うということが、頭の中でイエスに「はい」と言って歩んでいくだけでなく、愛の行為のすべてでイエスの死と復活のパターンに引きずり込まれるような、人生全体を再構築するものだとしたらどうでしょうか。落胆したり、苦しんだり、葛藤したりするたびに、キリストのいのちに参与する機会を得ることができるとしたらどうでしょうか。
Jカーブの本当の目的は、私たちが苦しみに耐えられるようになることではありません。もちろん、それもあるのですが。Jカーブは、クリスチャン人生がどのようなもので、どのように感じられるかという私たちの期待を再構築します。そしてイエスのいのちの地図上で自分の位置を確認し、現実の人生のあらゆる浮き沈みの中でキリストとともに歩む豊かな感謝と喜びを経験できるように、私たちを解放するのです。