5月27日 第148日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 05月 27日 - この記事は約2分で読めます。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。 (ヘブル人への手紙9:28)
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
私たちの前につねに立ちはだかる疑問は、キリストが罪を背負われた『多くの人』の中に私は含まれているのか、そしてキリストの再臨で私たちは救われるのか、ということです。
ヘブル人への手紙9章28節によると、もし私たちが「[キリスト]を待ち望んでいる」なら「含まれている」、というのが答えです。キリストの再臨を待ち望むほどにキリストに信頼しているなら、私たちの罪は取り去られていて、さばきを受けることはないことを知ることができます。
偽りの信仰、というものがあります。この信仰はキリストを信じると主張しますが、その信仰は火災保険のようなものに過ぎません。偽りの信仰は、地獄から逃れるためだけに「信じ」ます。キリストを本当に求めることはありません。むしろ、キリストが再び来られないほうが、この世の快楽をできるだけ多く味わうことができて都合が良い、と考えます。このような心はこの世とともにあり、キリストとともにはありません。
ですから、私たちが問いかけるべきはこうです。あなたはキリストの再臨を待ち望んでいますか? できればキリストは離れたところにいてほしい、そうすればこの世との密やかな不貞の愛を邪魔されることはない、と思ってはいないでしょうか? これを自問自答することで、あなたの信仰が本物であるかを試すことができます。
どうか私たちが、「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望む」と告白した、コリントの信者たちのように(Iコリント1:7)、そして「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ3:20)と告白した、ピリピの信者たちのようでありますように。
これこそ、私たちの対峙すべき問題です。キリストが現れるのを、私たちは喜びますか? それとも、この世を愛し、キリストの現れによって自分の計画が邪魔されることがないよう望んでいますか? 永遠は、この問いにかかっています。