渇きをもって主に仕える

6月16日 第168日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 06月 16日  - 

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

(コリント人への手紙第二5:9)

あなたが人生をかけて(パリサイ人のように)神を喜ばせようとしてきたにも関わらず、そのあいだずっと、神の目には忌み嫌うべきことばかりをしていたとわかったら(ルカ16:14-15)、どうでしょうか?

ある人は、この質問を投げかけてこう答えるかもしれません。「そんなことはあり得ないでしょう。神は、ご自分を喜ばせようと頑張る人を決して拒絶されませんから。」 しかしここで、この質問者がしたことがわかるでしょうか? その人は自分の考える「神というお方」に基づいて、神が喜ばれるのは何かを決めつけていたのです。私たちが何よりもまず、聖書に明らかにされている神のご性質を学ぶことから始めなければならないのは、まさにこのためです。

神は山の泉です。水桶ではありません。山の泉は自然に流れ出る湧き水です。絶えず流れ溢れ、周囲に水を送ります。しかし、水桶はポンプやバケツで水を入れなければなりません。つまり、重要な質問はこうです。あなたは泉にどう仕えますか? そして水桶にはどう仕えますか? 神の本当の姿を、あなたはどのように讃えますか?

あなたがもし水桶の価値を讃えたいなら、あなたがしっかり働いて、水桶を常に満たし、使えるようにすれば良いでしょう。しかし、泉の価値を讃えたいなら、あなたはただ身をかがめ、手と足を地面につけ、あなたの心が満足するまで喉を潤すことです。そうすればあなたは回復と力を得、谷に降りていって人々に泉のことを伝えることができます。

絶望的な罪人である私の希望は、この聖書の真理にかかっています。それは、神というお方が喜ばれるのはただ一つ、私の渇きだということです。だからこそ、神の主権的自由と自己充足は私にとって尊いのです。これらは私の希望の土台です。神が喜ばれるのは、人がバケツリレーのようにテキパキと動くより、罪人がただひざまづいて恵みの泉から飲むことだからです。

もちろん私たちは、今もとこしえまでも、神に喜ばれるよう追い求めるべきです。しかし、何が神を喜ばせるのかについて、私たちの人生が誤った見解に基づいているとしたら、なんというわざわいでしょうか。主が喜ばれるのは、主を人の助けのいる水桶のように扱う人ではなく、決して尽きることのない、すべてを満たす泉として扱う人ではないでしょうか。詩篇147篇11節の言葉の通りです。「御恵みを待ち望む者とをは好まれる。」

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, Serve God with Your Thirst.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Serve God with Your Thirst.