9月1日 第245日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 09月 01日 - この記事は約2分で読めます。
私たちの神は 天におられ/その望むところをことごとく行われる。 (詩篇115:3)
私たちの神は 天におられ/その望むところをことごとく行われる。
この一節が教えているのは、神が行われることは何でも、神ご自身の望む方法で成される、ということです。
神は、ご自分の嫌うことを強制されることは絶対にありません。部屋の隅に追いやられ、やりたくもないことをやるしか選択肢がない、という状況は決して起こりません。
神は望むままに事を行われます。それはつまり、神は何をするにも喜ばれるということになります。
このことは、私たちを神の御前にひれ伏せさせ、神の主権的自由への賛美を献げることに繋がるはずです。ある意味では、神は常にご自分の「良い喜び」のために、ご自分の喜びの命令に従って、自由に行動されるのです。
神が状況に強いられることはありません。喜ぶことのできない何かをやらざるを得ないような状況に追い込まれることもありません。神は人に馬鹿にされることはありませんし、囚われたり、追い詰められたり、強要されたりすることもありません。
ある意味で神にとって最も困難なことである「ご自分の御子さえも惜しむことなく」(ローマ8:32)献げたという歴史の一点においてさえ、神はそれをご自分の喜びとして自由に成されました。パウロは、イエスの死による自己犠牲は「神へのささげ物……芳ばしい香り」であったと言いました(エペソ5:2)。最大の罪であり、最大の死であり、神にとって最も困難であった行為は、非常に深い意味合いにおいて、御父を喜ばせるものとなったのです。
カルバリへの途上、イエス自身も、御使いの軍勢を自由に動かすことができました。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」(ヨハネ10:18)——それは、ヘブル人への手紙12章2節に「ご自分の前に置かれた喜びのために」とあるように、イエスご自身の喜びのためでした。イエスが囚われたかのように見えた、宇宙の歴史のその一点においてさえ、イエスはご自分の望むままに行う自由を得ておられました。それは、御父をほめたたえるために、あなたや私のような不信仰なものを義と認めるための死でした。
ですから、私たちはただ驚きおそれるばかりです。そして、私たちが神の主権を賛美することだけでなく、私たちのために死なれたキリストによる救いでさえも、この一節のみことばに含まれていることに、恐れ慄くばかりです。「私たちの神は 天におられ/その望むところをことごとく行われる。」