9月2日 第246日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 09月 02日 - この記事は約2分で読めます。
「あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」 (申命記7:6)
「あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」
恵みの教理とは、救いにおける神の主権的な恵みについてのカルヴァン主義的な教え(TULIP)を指す、古いピューリタン用語です。もし、その教理の木のすべての枝々にアウグスティヌス的な喜びの樹液が満ちていたら(つまり、「クリスチャン・ヘドニズム(クリスチャン快楽主義)」の概念)、この恵みの教理はどのような響きを持つでしょうか?
この5つの中で、無条件的選びほど、私に厳しく、そして甘美なさばきをもたらすものはありません。これが無条件であることは、いかなる自惚れをも打ち砕き(これが厳しい部分です)、またこれが選びであることは、私を神の宝とならしめるからです(これが甘美な部分です)。
これこそ、聖書の恵みの教理の持つ美しさの一つです。すなわち、最悪なまでに打ち砕かれることが最高の喜びを私たちに備えさせるのです。
「あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた」(申命記7:6)というこのことばの、この選びが、もし私たち次第のものであったとしたら、私たちはどれほどの傲慢になってしまっていたことでしょうか。しかし私たちを高慢から守るために、主は私たちが無条件に選ばれていることを教えておられます(申命記7:7-9)。「神はこの哀れな者を宝とされた」と、私たちが喜んで歌うために——。
ただ、選びの恵みの破壊的な自由さと無条件性だけが——そしてそれに続く救いの恵みのすべての御業が——、このような賜物を自分のものとして受け取り、味わうことを許すのです。