9月30日 第274日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 09月 30日 - この記事は約2分で読めます。
最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。 (ピリピ人への手紙3:1)
最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。
私たちが神にあって喜ぶとき、神はほめたたえられる——この神にある喜びこそが、私たちの賛美をうわべだけのものではなく神に栄光を帰すものとならしめるものである——。誰も、このことを私に教えてくれませんでした。
しかし、ジョナサン・エドワーズは実に明確に、力強く、このことを語っています。
神は被造物に対して、二つの方法でほめたたえられる。それは、(1) 被造物の理解に現れてくださることによって、そして (2) 被造物の心にご自分のことを伝え、そして被造物のうちに生まれる喜びと歓喜、そして神ご自身の現れを彼らが楽しむことによって、である。神はご自分の栄光が見られることによってだけでなく、その栄光が被造物の喜びとなることによってもまた、ほめたたえられる。…… その栄光を見て喜ぶ者は、ただ栄光を見るだけの者より、神をより多くほめたたえる。神の栄光を証しする者は、神の栄光についての考えを証しするだけの者よりも、それに加えて称賛と喜びを証しする者のほうが、よりいっそう神をほめたたえている。
神は被造物に対して、二つの方法でほめたたえられる。それは、(1) 被造物の理解に現れてくださることによって、そして (2) 被造物の心にご自分のことを伝え、そして被造物のうちに生まれる喜びと歓喜、そして神ご自身の現れを彼らが楽しむことによって、である。神はご自分の栄光が見られることによってだけでなく、その栄光が被造物の喜びとなることによってもまた、ほめたたえられる。……
その栄光を見て喜ぶ者は、ただ栄光を見るだけの者より、神をより多くほめたたえる。神の栄光を証しする者は、神の栄光についての考えを証しするだけの者よりも、それに加えて称賛と喜びを証しする者のほうが、よりいっそう神をほめたたえている。
これは、私にとって驚くべき発見でした。この宇宙において何よりも優れた現実である神をほめたたえるためには、私は神にある喜びを追い求めなければならないのです。喜びは、礼拝するうえでの単なる選択肢ではありません。礼拝になくてはならないものです。むしろ、神の栄光を喜ぶことは、礼拝の本質とも言えるでしょう。
神をほめたたえることに喜びを感じないのに、神を賛美する人々のことを、私たちは偽善者と呼びます。イエスはこう言われました。「偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。/『この民は口先でわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている』」(マタイ15:7-8)。この事実——すなわち本当の賛美は完全なる喜びを意味し、人の最高の目的はこの神の栄光に対する喜びを飲み干すことであるという事実——は、おそらく私に最大の自由をもたらした発見でした。