11月6日 第311日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 06日 - この記事は約2分で読めます。
主はあなたに告げられた。/人よ、何が良いことなのか、/主があなたに何を求めておられるのかを。/それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、/へりくだって、/あなたの神とともに歩むことではないか。 ミカ書6:8
主はあなたに告げられた。/人よ、何が良いことなのか、/主があなたに何を求めておられるのかを。/それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、/へりくだって、/あなたの神とともに歩むことではないか。
「あなたの喜びが私を幸せにしてくれる」と言われて、愛されていないと感じる人はいません。また「人に親切にするのはそれが私自身の喜びだから」と説明して、自分勝手な人だと非難されたこともありません。むしろ、愛の行いは、それが嫌々ではなく行われたときに本物だと言えるのです。
そして、嫌々行うことに取って代わるのは、感情を無にすることでも義務感から行うことでもなく、感謝をもって行うことです。真実の愛の心は、誠実を愛します(ミカ6:8)。ただ誠実を行うだけではないのです。クリスチャン快楽主義は、この真理に対する妥協を許しません。
このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。 一ヨハネ5:2-4
このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。
この箇所を逆から読んでみると、論理が明らかになります。第一に、神から生まれた者には、世に勝つ力が与えられています。この事実は、神の命令が重荷とならないという宣言の根拠または基盤となっています(「から」という言葉に注目してください)。
ですから、神から生まれた者に与えられる力は、神のみこころに対する世の反感に打ち勝ちます。今や、神の命令は主にではなく、私たちの心の願いであり喜びなのです。これが神の愛です。私たちは神の命令を行うようになるだけでなく、それが重荷とならないのです。
そして2節では、神の子どもたちへの愛が本物かどうかを見分ける証拠として、神への愛が挙げられています。これは、神の子どもたちに対する私たちの愛について何を教えているでしょうか?
神への愛とは、神のみこころに重荷を感じることではなく、感謝をもって行うことです。そして、神への愛が神の子どもたちへの愛の真実性を測るものである以上、神の子どもたちへの愛もまた、嫌々ではなく、感謝をもってなされるべきです。
クリスチャン快楽主義は、まさにこの愛の奉仕のために存在します。この真理は私たちを、嫌々従うのではなく感謝をもって従う生き方へと強く促すからです。
{※クリスチャン快楽主義(Christian Hedonism)とは何か}