クリスチャンの愛は何が特別なのですか?

ジョン・パイパー 、楠 望(翻訳) - 2026年 01月 13日  - 

[トニー(ポッドキャスト進行役・以下、T)]今週は大変意義深い週になりそうです。なぜなら今日、このポッドキャストの第500週目がスタートするからです。素晴らしいですね。ここまで支えられた多くの恵み、そして皆さんの力がなければ成し得ませんでした。皆さんの祈り、サポート、質問、そしてこの番組のリスナーでいてくださることに感謝します。これを当たり前のこととは考えません。空港のターミナルで待つ間、地下鉄に乗っている間、皿洗いや洗濯、犬の散歩など、いつもの変わらない用事をする間、職場まで運転する間、子どもたちの送り迎えをする間、また一日の終わりに、携帯から流して聴いてくださって、ありがとうございます。あなたがどこで、どのように聴いておられようと、このポッドキャストをあなたの忙しい生活の一部に加えてくださり、早くも500週を迎えられることに、感謝します。

『原点が違い、愛を保つ力が違い、愛の目的も違います。』

[T]第500週初めの質問は、リスナーのジョーさんから送られてきたものです。

[ジョー]ジョン先生、こんにちは。ポッドキャストの働きに感謝します。新しく生まれ変わることによってクリスチャンの心に生まれる互いへの愛は(Iヨハネ4:7; Iペテロ1:22-23)、この世でノンクリスチャンの間で示される慈善的な愛、また自己犠牲的な愛と、どう違うのですか? この違いをどう説明できますか?

世俗的な愛とクリスチャンの愛の違いはこうです。世俗的な愛は、神の御子の十字架に根ざした愛ではありません。またその愛は神の霊の力によって保たれていませんし、かたち造られていません。さらに父なる神の栄光のために行われる愛ではありません。つまり原点が違い、愛を保つ力が違い、愛の目的も違います。では、これらを順に確認しながら考えてみましょう。

十字架に根ざす

第一に、これら二つの愛には違う原点があります。ヨハネの手紙第一4章19節に、このようにあります。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」 神はどのようにして、まず私たちを愛されましたか? ヨハネの手紙第一3章16節で、ヨハネがこう言っていますね。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」 つまりクリスチャンの愛は、私のため、またあなたのための、キリストの犠牲に根ざしているのです。

これによって、私たちの罪は赦されました。私たちは神に義と認められ、受け入れられ、愛されています。人生にあるすべてが私たちの益となるよう働き、永遠の喜びがもたらされること、またそれによって恐れや貪り、愛を妨げる大きな壁は、神がキリストにあって私たちの味方でいてくださると信じることで取り去られることを、私たちは知っているのです。コロサイ人への手紙3章12節で、パウロがクリスチャンたちに深い慈愛の心を持つよう呼びかけたとき、パウロは命じる前に、まず私たちがどのような者であるか、三つのアイデンティティを示しました。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心を…着なさい。」

『私たちの愛はキリストの御業と、その御業が私たちの人生にもたらす効果とに根差し、そこからあふれ出た愛であります。』

さて、これが慈愛の原点の根っこです。神が私を選ばれ、神が私をきよめられました。そしてこの状態はすべて、キリストが私たちの身代わりとして死んでくださったことによって与えられました。それ以外の方法はありません。私たちのための、その死は、希望を与えました。その希望から、愛が流れ出ています。コロサイ人への手紙1章4-5節にはこうあります。「すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので」す。この希望は、十字架にかけられたイエスによって買い取られたのです。

キリストの死はまた、喜びを与え、愛はその喜びから流れ出ます。コリント人への手紙第二8章2節にこう記されています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。」 つまり、喜びは愛のうちにあふれ出るのです。クリスチャンの愛とは、他の人の必要を満たしてくださる神のうちにあふれ出る喜びであり、その喜びはイエスの死によって血で買い取られた喜びです。

ですから、世俗的な愛とクリスチャンの愛の一つ目の違いは、私たちの愛はキリストの御業と、その御業が私たちの人生にもたらす効果とに根差し、そこからあふれ出た愛であるということです。

御霊によってかたち造られる

第二に、クリスチャンの愛は神の霊の働きによって保たれ、かたち造られていますが、世俗的な愛はそうではありません。ガラテヤ人への手紙5章22節で、パウロはこれを「御霊の実」と呼んでいます。御霊は、キリストの死を私たちにとって現実のものとし、キリストの死が私たちに愛を生み出す効果をもたらすように、新しい心を与えてくださいます。ヨハネの手紙第一3章14節にこうあります。「私たちは、自分が私からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。」 私たちの人生における愛は、神の霊が私たちを死からいのちへと移してくださったことの証拠なのです。

『クリスチャンの愛は神の霊の働きによって保たれ、かたち造られています。』

御霊は、クリスチャンとして歩み始めたばかりの(新しく生まれ変わった)私たちにいのちを与えるだけでなく、私たちの信仰といのちをその歩みの中で保ち、その愛の求める必要な犠牲を献げることができるように、そのときどきに応じて神の力により頼むよう助けます。私たちの信仰を保つのは聖霊です。その御業によって、私たちは希望と喜びのために神の約束をいつも堅く握ることができ、愛のために自由になることができるのです。

御霊がいかにして私たちの愛の能力をかたち造り、保つかを話すなら、延々と話し続けることができるでしょう。御霊は、私たちの心が愛に必要な知恵と大胆さを得られる神の命令と約束に向くよう、何度も何度も軌道修正をします。また御霊は、私たちが別の何者かになろうとしないようプライドを打ち砕き、代わりに、自分の利益だけでなく他の人の利益を考えることができるようにします。これ以外にも、まだまだあります。御霊の働きは、クリスチャンの愛を保ち、かたち造ります。しかし、世の愛はそうではありません。

栄光を目的とする

第三に、そして最後に、クリスチャンの愛は違う目的を持っています。まったく違う目的であるというより、根本的に違う目的と言えるでしょう。ノンクリスチャンの愛がまったく違うとは言えません。なぜなら、世俗的な愛もまた、他の人の身体的・感情的・心理的・関係的・経済的な幸せを目指すからです。クリスチャンもこれらのことに心を配るでしょう。この部分は重なり合っているのです。しかしクリスチャンに、「これらの領域において、人にとって何が良いことか——何が本当に良いことであるか」と尋ねるとしたら、その答えは常に、世俗的な人々の答えとは本質的に違ってくるはずです。なぜなら、クリスチャンの考える、人にとって良いこととは、かならずキリストにある神との関係性が含まれる中で定義付けられるからです。

『クリスチャンの考える、人にとって良いこととは、かならずキリストにある神との関係性が含まれる中で定義付けられる。』

人にとって良いこととは、キリストに信頼し、キリストの御霊により頼み、従順に歩み、神の栄光のために生きることです。したがって、例えばクリスチャンがある人の身体的な健康を求めることについて話すとしたら、私たちはその人が身体的な健康を神からの賜物として体験すること、それをイエスの御名によって受け取ること、そしてそれを神の栄光のために用いるよう聖霊により頼むことを願うのです。これらの神に向かう側面が欠けてしまえば、私たちの愛は目的を達成することができず、悲嘆に暮れるほかありません。

クリスチャンの愛は、地上でのいのちは空しく、その後に待っているのは神の臨在の中で過ごす極上の永遠の幸せか、神の臨在から切り離される永遠の苦しみのどちらかであることをしっかりと理解しています。ですから、クリスチャンはあらゆる苦しみに心を配り、永遠の苦しみについてはなおさらです。聖書は、私たちは何をするにもすべて神の栄光を現すためにせよ、と教えています(Iコリント10:31)。だから私たちは、神の栄光のために人を愛するべきです。

私たちを魅了する愛

「人に愛を示すとき、その愛を通して神が栄光を受けられることを願っているなら、その人に対する愛は本物なのか」と尋ねる人がいます。私もこの質問を受けたことがあります。最近も耳にしました。その答えは、「YES」です。その人に示されたのは愛であり、その愛は最もすばらしい愛です。

答えが「YES」である理由、つまり神が栄光を受けられることを願って誰かを愛する場合にそれが愛である理由は何でしょうか。愛とは、たとえ自分の命を犠牲にしようとも、あなたの愛する人を最もすばらしい、最も長く続く幸せで魅了するためにどんなことでも行うことなのです。そして、あなたの愛する人が魅了される、最もすばらしく最も長く続く幸せとは、神の栄光であり、神がイエスにあって人々に与えるものすべてです。ですから、人を愛することは、自分がどんな犠牲を払おうとも(イエスがそうでした)、人々が今も、永遠に、神の栄光に魅了されるよう、全力を尽くすことなのです。

神がイエスにあって人々に与えてくださるものすべてに魅了されるなら、彼らは完全かつ永遠に満たされ、また神は彼らが満たされたことにおいて栄光を受けられます。これが、私たちDesiring Godの特徴です。栄光に満ちた、深みのある聖書の理解です。だからこそ、人を愛することと神に栄光を帰すことは、切り離すことはできません。この二つは相反するものではありません。これらは非常に深い意味で、一つです。

ですから、これらの三つの点において、クリスチャンの愛は世俗的な愛と違っています。原点(キリストの死と復活)が違い、愛を保つ力(聖霊の働き)が違い、目的(神にあって完全かつ永遠に続く喜び)が違います。


This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, What Makes Christian Love Different?.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:What Makes Christian Love Different?