《いつも時間の足りない世界で、邪魔や中断を受け入れることについて》
癇癪
疲弊
涙!
熱い 怒りの 涙 涙 涙
『母親業は不毛に感じられることがあります。毎日同じ作業の繰り返しで、先が見えず、いつ終わるかもわかりません。』
締切逃した
文章書きかけ
皿!
こんなに たまった 皿 皿 皿
服に鼻水
冷める夕食
まず夫が食べる横で(*)
私は娘の爆発を抱きしめる
ようやく静かになったとき
疲れきった私の顔を手で挟み
娘がささやく 笑いながら
「大丈夫、ここにいるよ」
「それ、誰から習った?」
「ママ!」
びっくり ほっこり
娘と祈る
今日何をした? 何ができた?
わからない
でも もし本当に
すべての営みに時があるなら
皿洗いや締切は
待ってくれるだろう
「大丈夫、ここにいるよ」
(焦る心に言い聞かせる)
今日 今 大切なのは
ここにいる、ということ
『ここにいる』(2024年5月)
* 夫が先に食事を済ませるのは、癇癪が収まった後に娘の食事や入浴をしてくれるためです。この注意書きは重要でしょう!😉
オーストラリアではインフルエンザの季節が到来し、幼い子どもがいる家庭では、ひどい鼻水、高まるイライラ、募る不満で爆発寸前となっています。我が家はイースターからノンストップで病気にやられました。まず娘がウイルスに感染し、必然的に夫と私もドミノのように倒れました。鼻水だらけで寝不足な上に、家にこもっていなければいけません。長く孤独な戦いでした。
『神は、子どもの邪魔こそが今の私の奉仕なのだと、この季節を通して教えてくださっています。』
今週は感染を広げないように、ショッピングセンターではなく人のいない公園に娘を連れて行きました。自然から力をもらい、リフレッシュできる人もいますが、私はそういうタイプではありません。アヒルや石に話しかけても盛り上がりませんでしたが、映画『キャスト・アウェイ』でのトム・ハンクスとウィルソンの友情が少し理解できるようになったと思います。
コロナによるロックダウンの間に親だった人の気持ちは想像もつきませんが、多くの人が孤独感や産後の不安、うつ、生きる意味や目的を失って苦しんだことが今ならわかります。大切な行事ができなかったり、子どもの成長の節目を祝えなかったりするのはどれだけ残念なことでしょう。親という仕事に病欠がないことの絶望的な疲労感も共感できます。激しい頭痛と止まらない咳に襲われながら、それでも幼い子どもの癇癪をなだめ、聖書の学びを準備し、仕事の締切に間に合うように、ベッドから這い出ねばなりません。憤りと無力感、そして途方に暮れた気持ちで、私は冒頭の詩、『ここにいる』を書きました。
私はこの記事を、子育て中の人に追い打ちをかけるためではなく、過度に美化されがちな領域、特に信仰のコミュニティにおいてその傾向がある「子育て」という領域で真実を語るために書いています。母親がイライラや不満、恨みさえ感じていることを認めるのは難しいことです。感謝を知らない、母親の資格がない、不敬虔だ、とさばかれる恐れがあるからです。「ボスベイブ」(ビジネス界で権力を持つ女性)や「ママ系インフルエンサー」が支配しているように見えるフィルターのかかった世界では、次世代の母親(そして父親)は現実的な期待と、永遠の神学、試練を耐え抜く忍耐を備えもっている必要があると思います。
かつて友人が子育ては感情のパラドックスだと言いました。喜びと絶望、ストレスと満足が一緒に、同時に感じられるから、と。私は母親になるまでそれを理解できませんでしたが、堕落後の他のどんな仕事もそうである様に、子育てという賜物さえも、茨とあざみによってのろわれてしまったのです。
『子育ては、時間に飢えたこの世界で、焦ることのない神の寛容と臨在を体現する機会なのです。』
私個人の意見・・・
- 母親業は不毛に感じられることがあります。毎日同じ作業の繰り返しで、先が見えず、いつ終わるかもわかりません。
- 母親業は疲れます。子育ては子どもの心と身体、霊の成長を担う大変な使命なのに、寝不足な状態で走り続けなければいけません。
- 母親業は圧倒されるほどのストレスです。緊急で重要で互いにかち合ういくつものことをずっとやり続けるのは精神的に大きな負担です。
- 母親業は目に見えません。表彰されることも対価を支払われることもない、裏方の仕事ばかりです。
娘を与えてくださった神に心から感謝する一方で、私には毎日、家事からも、子どもの癇癪や散らかった部屋、うまく昼寝してくれないもどかしさからも解放されたいと願う葛藤があります。仕事をしていたときの予測可能な日々が恋しいです。職場では生産的に仕事をし、自分の思い通りにスケジュールをこなすことができました。時間を気にすることなく、休み、考え、物を書くことのできた「自分の時間」が恋しいです。
私は片付いた台所となんでも終わらせるのが好きな人間です。神はインフルエンザの季節を通して、私の不完全な愛を浮き彫りにされました。私の愛はいつもせかせかと焦っている愛です。子どもを仕事や奉仕の「邪魔」だと捉えていたことに気づかされました。神は、子どもの邪魔こそが今の私の奉仕なのだと、この季節を通して教えてくださっています。子育ては、時間に飢えたこの世界で、焦ることのない神の寛容と臨在を体現する機会なのです。
『イエスが生産性を再定義されたことです。目に見えない働きに計り知れない価値があることを教えられています。』
慌ただしいこの世において、寛容な「ここにいる」という精神には大きな力があると信じます。敬虔な愛の特徴がまず「寛容」であること(Iコリント13:4)、また私たちが「急ぐ」のでも「走る」のでも「疾走する」のでもなく、愛のうちに「歩む」ように召されていること(エペソ5:2)は、偶然でしょうか。
福音書から、イエスがいつも人間の弱さに対して寛容であり、急ぐ心で対応されなかったことは明らかです。イエスは日々の糧、愛、癒し、救いといった私たちの被造物としての必要を理解し、愛とあわれみをもって私たちの「邪魔」を受け入れてくださる方です。
イエスは、パリサイ人ヤイロの家へと向かう途中で、長血をわずらう女性の「邪魔」を受け入れました。より社会的地位の高い霊的指導者から急かされていたにもかかわらず、社会的弱者の必要を優先させたのです。イエスは、パキパキと仕事をこなすマルタよりも忠実で教えられやすいマリアを褒めました。イエスは、忘れっぽく気まぐれで、不信仰な弟子たちに、忍耐強く恵みに満ちた寛容を示しました。イエスは、子どもを追い払う文化の中で、子どもたちを受け入れました。
私は時々家での責任が嫌になります。外での仕事と比べると、子育ては時間がかかり、単調で、目に見えないものに感じられるからです。家にいて母親業をしながら学んでいるのは、イエスが生産性を再定義されたことです。目に見えない働きに計り知れない価値があることを教えられています。鼻水をふいてやり、癇癪をなだめる。そうやって辛抱強く「邪魔」と向き合うことは、決して無駄ではないと学んでいます。神は平凡な日々の働きを用いて、幼い娘の心にも、私の心にも、永遠の実を結ばせてくださっているのです。
『明日にはもう必要ないかもしれないことで、今日、幼い娘は私を必要としています。』
私が学んでいること・・・
- 子どもの癇癪は、完全な親であられる神、私たちの弱さに対し寛容で、怒るのに遅く、優しく、あわれみ深い神を映し出す機会なのだということ。
- 難しい会話はいつでも、私たちを変える神の恵みを示す機会なのだということ。子どもに優しさや寛大さを求めることと、忍耐強く(そして祈りをもって)子どもの目を神に向けることには違いがあります。神は欲張りで意地悪な心を変えることのできる唯一の方です。
- 自分の不寛容や苛立ちを謝ること。そうすることで娘に自分の弱さを認めてよいこと、ママも罪人であり、恵みと赦しを必要としていることを示せます。
- 順調なときも波乱のときも、私たちの歩みを確かにされる神によって、すべてが善へと変えられると受け入れること(箴言16:9)。中断や中止を恨む代わりに、神の摂理の中で生き、永遠の価値をもつ働きを優先することを学んでいます。
母としての旅は呪いから始まるかもしれませんが、神はそれが刷新と贖いで終わることを約束しておられます。緑の牧場、より良い園が私たちを待っています。そこには茨もあざみも、涙も病も、むなしさも焦りもありません。これが、試練の日の私の希望です。私が耐え忍ぶのは、永遠に足を踏み入れた瞬間に、寛容と「ここにいるよ」の精神で邪魔を受け入れようと努めたこと、信仰と忍耐をもって愛のうちに歩んだことが報われて、ホッと安堵できることを確信しているからです。これは母親業だけでなく、人生のすべてに当てはまる真理です。
明日にはもう必要ないかもしれないことで、今日、幼い娘は私を必要としています。だからもし本当に、天の下のすべての営みに時があるのなら、今日、皿洗いや締切は待てるでしょう。
This article has been translated and used with permission from the SOLA Network. The original can be read here, The Dishes & Deadlines Can Wait.
この記事は「SOLA Network」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Dishes & Deadlines Can Wait。