間違いを認めない人を赦すことはできますか?

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2025年 11月 04日  - 

以下は、『Ask Pastor John(ジョン先生に聞く)』というポッドキャストの収録内容を文章に起こしたものです。

[トニー(ポッドキャスト進行役)]ジェイソンさんからの質問です。

[ジェイソン]ジョン先生、こんにちは! ご存知のように、マタイの福音書18章にある、仲間を赦さなかった家来のたとえ話は、赦さない者への切迫した警告で締めくくられています。「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」(マタイ18:35)。34節は、35節の警告の理由を説明しています。「こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した」(マタイ18:34)。私はこの箇所について質問がたくさんあるのですが、おもに二つの点を伺いたいと思います。(1)相手が赦しを乞うていない場合、私はその人を聖書的な意味で赦すことができるのでしょうか? または、相手が赦しを乞えば、進んで赦せば良いのでしょうか? もし私がその人を赦す前に、私が死ぬか、相手が死ぬかしてしまったら、どうなりますか? (2)相手が私に対して何も間違ったことをしていないと思っている場合、私はその人を聖書的な意味で赦すことができるでしょうか?

『救いは、良い行いに対する報酬ではありません。良い行いはキリストとの結合から生まれる実です。』

ジェイソンさんのメッセージには、少なくとも3つの質問があると思います。

  1. 相手が私たちに何も間違ったことをしていないと思っている場合(そして私たちはその人が間違ったことをしたと思っている場合)、私たちはその人を赦すことができるのか? ちなみに、これは結婚生活に大きく関係します。結婚生活でこのようなことはよく起こると思います。
  2. 相手が赦して欲しいと願わない場合、赦しは進展していくのか?
  3. 私が相手を赦す前に、または相手が赦しを乞う前に、私が死んだらどうなるのか?

まずは、赦しについてイエスがどのように教えておられるかを見ていきましょう。ジェイソンさんが示しているように、イエスの教えは非常に重要です。イエスは何と言っておられるでしょうか。イエスは、このように祈りなさいと言われました。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタイ6:12)。これについて、イエスはさらに14-15節で展開しておられます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」 これはかなり、深刻です。

さらにイエスは、これをたとえ話に置き換えられました。これがジェイソンさんの話していた、マタイの福音書18章ですね。ペテロが主にこう尋ねます。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」(マタイ18:21)。イエスはペテロに言われました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」(マタイ18:22)。別の翻訳では、七十の七倍、と訳されているものもあります。要するに、何度も何度も何度も、ということです。

ここで、たとえ話の登場です。ある王さまが、100万ドル(1億円以上)もの借金を抱えている男を赦しました。とにかく桁外れの借金の額です。しかし、この男は出ていくと、自分に10ドル(千円)ほどの借りがある仲間を締め上げたのです。つまり、赦された体験があったにも関わらず、それがこの男を変える効果はゼロだったということです。彼は今まで通り、自己中心的なままでした。王さまはこのことを耳にしますが、ここからが本題です。

「そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

マタイ18:32-35

『敵意や恨みは、すぐにでも捨て去るべきです。私たちが行うべきは、イエスが十字架でしてくださったことです。』

ヤコブの手紙2章13節で、ヤコブも基本的に同じことを言っています。「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」 これはつまりですね、トニーさん、あなたに対する私のあわれみが、さばきの日に勝利をもたらすということなのです。イエスはこれについて、マタイ5章7節で述べておられます。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」 あなたがあわれみを持たないなら、あなたが出会う神もまた、あわれみを持ちません。

まさに水を浴びせられるような思いです。感謝を忘れ、人を赦さない人は、真のクリスチャンとは呼べず、新しく生まれているとも、天国が約束されているとも言えないのです。イエスはこう言われるでしょう。「私の赦しを本当に受けていながら、人を赦さないままでいることはできません。」 そう、できないのです。ジェイソンさんの質問は、非常に重要です。なぜなら、これはいのちと死に関わる問題だからです。これについて、順に見ていくことにしましょう。

まずは、自分の敵を赦す前に私が死んでしまったらどうなるか、ということです。この答えは、私たちの赦しが最終的な救いにおいてどのように機能するか、つまり、あなたが人を赦すことがどのように機能するか、ということにかかっています。もし、神があなたの赦すという行いを一つひとつを見て、それを救いで報いてくださるとお考えなら、あなたが死んだときにその赦しが見られない場合は、救いを失うということになるでしょう。あなたはこう理解しておられるのでしょう。

しかし、人を赦すという行いがキリストとの結合におけるたくさんの実の一つであると考えるならどうでしょうか。一つの実が、赦しという行いに至るまでまだ熟していない状態だとすると、それは必ずしもあなたがキリストと結ばれていないという証明にはなりません。理由は2つあります。一つは、キリストとの結合の現実を示す、他の実があるからです。もう一つは、たとえ赦しの種が、赦しの行いに至るまで成長する時間がなかったとしても、主ご自身はあなたの行いの種を見ることができるからです。

実際、そのようになっていると、私は思うのです。私たちの人を赦すという行為は、最終的な救いの体験とこのように関わり合っています。救いは、良い行いに対する報酬ではありません。良い行いはキリストとの結合から生まれる実であり、キリストこそが、私たちが神に受け入れられる根拠をすべて満たしてくださるお方です。ですから、良い行いが一つ成されていないからといって、私たちが失われることにはなりません。その部分はイエスの血によって覆われることでしょう。なぜなら私たちは、信仰によってイエスと結ばれているからです。私たちの人生に生まれる他の赦しの行いは、すべてこの現実、つまり私たちがイエスを信じ、イエスの血が私たちを覆ってくださることの、証となります。さてここで、ジェイソンさんの次の質問へと進みましょう。

『これが赦しにおいて私たちが果たすべき役割であり、敵対者が非を認めても認めなくても、私たちはこれを果たすことができます。』

相手が間違ったことをしていないと思っているが私たちはそうではないと考える場合、または相手が赦しを乞うていない場合、私たちはその人を赦すことができるのでしょうか? これに対して、赦すことができる、そして私たちは赦さなければならない、というのが答えです。赦すことについて、私たちには自分の果たすべき役割があります。イエスはそのことを意味して、こう言われたのでしょう。「あなたがたの敵を愛しなさい。……あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい」(ルカ6:27-28)。これをしたとしても、相手は私たちの敵のままです。彼らはあなたの赦しを乞うていませんし、それを必要だとも思っていません。私たちの人生を惨めなものにして、それが当然のことだと思っています。私たちは、彼らを祝福しなければなりません。その祝福とは、私たちが果たすべき内なる赦しが行われたことの証です。赦しの反対は、恨みを抱くことです。しかし祝福は恨みの反対にあり、したがって祝福することは、一種の赦しなのです。

ジェイソンさんもこう考えていると思いますが、確かに、赦しが必要であることを相手が信じ、赦しを求めない限り、赦しの完全な効果は現れないのでしょう。だからこそ、相手を赦そうとしているのにその人が赦しなど必要ないと考えていると、非常に苛立ってしまうのだと思います。しかし私たちは、相手の変化を待つべきでしょうか? 私たちは私たちの役割を果たすまでですから、相手がその役割を果たすのを待つ必要はないのです。敵意や恨みは、すぐにでも捨て去るべきです。私たちが行うべきは、イエスが十字架でしてくださったことです。

これについて、ペテロの手紙第一がじつに力強く描いています。キリストはこのようにして私たちに手本を示してくださいました。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず」——それどころか、イエスは人々の赦しのために祈られました。そして「正しくさばかれる方にお任せになった」のです(Iペテロ2:23)。

復讐は、放棄しなければなりません。そして私たちの動機を神に委ね、善で悪に報いるのです。これが赦しにおいて私たちが果たすべき役割であり、敵対者が非を認めても認めなくても、私たちはこれを果たすことができます。一つの偉大なる奇跡が、すでに私たちのうちに起こったのです。相手のうちに起こるであろう悔い改めの奇跡に対して、私たちが責任を負う必要はありません。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Can I Forgive Someone Who Doesn’t Confess Wronging Me?.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Can I Forgive Someone Who Doesn’t Confess Wronging Me?