鬱状態の中で神が与える希望とは

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2026年 08月 11日  - 

[トニー(ポッドキャスト進行役・以下、T)]キリスト教の快楽主義者である私たちも、鬱の痛みを知らないわけではありません。人生で避けることのできない鬱が襲ってくるようなとき、どうすれば乗り切ることができるかという質問は、受信フォルダにもたくさん届きます。鬱状態にあるときは、しばしば身体的および医学的側面が関係しますが、同時に霊的側面が大きく関わることもあります。そのような中で、ある一人の女性リスナーから、Eメールで質問が届きました。

[女性リスナー]ジョン先生、鬱状態にあるとき、聖書のどのみことばを開くとよいですか? 私は今かなりひどい鬱状態にあり、みことばの助けが必要です。助けていただけませんか?

『鬱状態にあるときは、しばしば身体的および医学的側面が関係しますが、同時に霊的側面が大きく関わることもあります。』

神が語られる

これは彼女が尋ねるべき中心的な質問ですね。つまり「どのみことばを、どの神のことばを、私は開くべきか」という質問です。私たちが耳を傾けるべきものは、他でもない神のことばだと、神は言われました。

さて、ここで甘い見解を示したくはありません。実際、鬱にはさまざまな側面があります。遺伝子的な要因にはじまり、食生活、エクササイズ、トラウマ、悪霊的な脅迫観念、人間関係のストレス、経済的プレッシャー、気候や気圧の状態、罪の連鎖、不眠、など、リストは続きます。暗闇の状態、もしくはうつ状態の引き金となりうる事がらは非常に複雑ですから、単純化しすぎる印象を与えたくはありません。

いずれにしても、もう一度言っておきましょう。検討する必要があるであろうすべての問題の全側面において(ぜひ質問者の女性には、関係性のありそうな要因をすべて挙げていただきたいと思いますが)、鍵となる質問は「神は私に何と言っておられるか?」すなわち、「聖書は何と言っているか?」というものです。

なぜこれが鍵となるかというと、聖書がこう言っているからです。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。鬱によって、私たちの信仰や希望が弱るのはよくあることです。そして、私たちが神のことばを聞かない限り、信仰の新たな目覚め、希望の新たな目覚めは起こらないと、神ははっきり言っておられます。

単純なものではない

聖書はそれ自体が、自動的に感情を好転させることを保証するとは訴えていません。なぜなら聖書には、神のことばを聞きながらも、感情的に好転しない人々のことを語っているからです。種まきのたとえ話や、コリント人への手紙15章2節(「あなた方が信じたことは無駄にな」る)などがその例です。

『鬱によって、私たちの信仰や希望が弱るのはよくあることです。そして、私たちが神のことばを聞かない限り、信仰の新たな目覚め、希望の新たな目覚めは起こらないと、神ははっきり言っておられます。』

聖書は、どんなに空虚な感情にも効く手っ取り早い万能薬のように単純なものではありません。しかし重要なのは、聖書がなければ、キリストを称えるような感情の好転は望めないということです。

薬の服用によって私たちの感情は変わるかもしれません。しかし薬に頼るだけで、神のことばがなければ、イエス・キリストとともにある正しい基礎に立つことはできないのです。気分が良くなることもあるかもしれませんが、神のことばがなければ、長期的な良い結果は生まれません。

今回の質問者は、鬱が非常に難しく、真っ暗で、さまざまな要因が絡み合う複雑なものであることに、決して単純な考えを示しておられない点で、まったくもって的を得た質問をしてくださいました。

では彼女が開くべき、また私であれば開くであろう聖書箇所を、五つのカテゴリーで紹介したいと思います。

待つことと祈ること

神を待つ必要について語っているみことばを書き留めましょう。詩篇40篇にはこのようにあります。「私は切に 主を待ち望んだ」(詩篇40:1)。ここには、何日、何週間、何ヶ月待ったかという具体的なことは出てきません。ただ、こう記されています。「私は切に 主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け 助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から 泥沼から 主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ 私の歩みを確かにされた」(詩篇40:1-2)。

人生には穴や泥沼にはまり込んでしまう時期があるものです。そのようなとき、クリスチャンである私たちに求められるのは、切に主を待ち望むことです。

詩篇30篇5節も見てみましょう。「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」 この一節を文字通り読むと、「泣くのは一日だけで、また喜びの日が来る」と解釈しかねませんが、ここはそのような意味ではありません。もしそうだとしたら、夜中の11時59分にこの戒めを読んだなら、「泣くのにもう一分しか残っていないじゃないか、その後24時間の喜びがあるのか」と考えるかもしれません。重要なのは、人生には涙する時期があるということ、そしてその後には、クリスチャンである私たちには、喜びが待っているということです。

詩篇56篇8節はどうでしょうか。「あなたは わたしのさすらいを記しておられます。どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。それとも あなたの書にしるされていないのですか。」

この初めのカテゴリーで重要なのは、聖書は、私たちが神と歩む道は、常に明るいだけの道として描いているのではないということです。私たちは確かに、緑の牧場に伏せることもあれば、死の谷を歩むこともあります。神の御顔の輝きを体験することもあれば、御顔が隠れている状態も体験するのです。ですから、このみことばの処方箋に記されているのは、神の御顔が隠れているとき、私たちは待ち望み、祈るべきだということです。これが、第一のカテゴリーです。

『暗闇の中にいるときに、私たちはこう言うべきなのです。「私は、その義を見る。」』

肝の据わった罪悪感

質問者の方とともに開きたい第二のカテゴリーを説明しましょう。肝の据わった罪悪感を示す聖書箇所を開きたいと思います。

私の大好きな聖句ですが、ミカ書7章8-9節です。ここには、神の暗闇のもとにいる私たちのような罪深い人間が、義と認められた立場ゆえに、神といかに肝を据えて向き合うべきかが書かれています。まずは聞いてみてください。

 私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても(これは鬱の状態を表すと私は思います)、主が私の光だ。私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。

私たちは誰もが罪を犯しました。ここで、すべての暗闇が罪に対する具体的な罰だと言っているのではありません。ただ、私たちはみな罪を犯した、と言っているのです。そのため、暗闇にいるときに良い子の振りをしても意味がありません。「神は私を見くびっている、もっと良い扱いを受けてもいいのに」などと、私たちは言えないのです。私たちは誰もが、罪を犯しました。ミカは続けます。

 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。

暗闇の中にいるときに、私たちはこう言うべきなのです。「私は、その義を見る。」 なんと驚くべき、素晴らしい聖句でしょうか。感傷的な甘ったれた言葉ではありません。自分自身の罪が神の恵みによって取り扱われるという、じつに現実的な言葉です。

義と認められた罪人はこのような話し方をします。私たちは絶望せず、おこがましくも思いません。私たちの確信は神にあり、神の義にあるのです。ここから、第三のカテゴリーにつながります。その神の義が、神ご自身によって歴史の中で成し遂げられたことを見るのは、絶対に不可欠です。

消し去られた罪

『義と認められた罪人はこのような話し方をします。私たちは絶望せず、おこがましくも思いません。私たちの確信は神にあり、神の義にあるのです。』

このカテゴリーの聖句は最も重要なものであると言えるでしょう。ですからしっかりと集中して聞いてください。特に、十字架上でのキリストの素晴らしいみわざを説明する聖句に注目していただきたいと思います。罪人であるあなたが、完全なるきよさと、完全なる愛の神の御前で、義と認められる判決を得るために、あなたの外側で行われたみわざのことです。

例えば、この聖句はいかがでしょうか。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったこと、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:6-8)。何度でも何度でも、繰り返し読んでいただきたいみことばです。

もしくは、この箇所です。「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです」(ローマ8:3)。この「肉において」とは、あなたの肉ではなく、御子の肉です。

または、ガラテヤ人への手紙3章13節です。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」 あぁなんと驚くべき約束でしょうか。

または、ペテロの手紙第一2章24-25節。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり 監督者である方のもとに帰った。」 つまり、偉大なる癒しとは、あなたが滅びの崖にまっさかさまに落ちていたとき、死にゆく羊飼いがあなたに手を差し伸べ、あなたを引き上げてくださったということです。「しかし今や、自分のたましいの牧者であり 監督者である方のもとに帰った」とあるとおりです。これを心に刻んでください。「私のたましいには羊飼いが、監督者が、いてくださる。」

他にもこのような聖句がたくさんあります。コリント人への手紙第二5章21節、ピリピ人への手紙3章12節、ピリピ人への手紙1章6節、イザヤ書53章4-6節などです。これが、読んでいただきたい第三のカテゴリーの聖句です。

感謝と賛美

第四のカテゴリーは感謝と賛美を記した聖句です。そんな気分になれない、とお考えかもしれませんね。一つ例を挙げてみましょう。詩篇86篇10-13節です。

『心の痛みがあることをわかっていながら、あなたが感謝や賛美についての聖句を読み、神にそのことばを投げかけることは、決して偽善ではありません。』

 まことに あなたは大いなる方 奇しいみわざを行われる方 あなただけが神です。主よ あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。わが神 主よ 私は心を尽くしてあなたに感謝し とこしえまでも あなたの御名をあがめます。あなたの恵みは私の上に大きく あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです。

詩篇86:10-13

さて、もしあなたが神に対して、または自分自身や他の人に対して、何も感じない状態にあることを正直に認める場合、これらの感謝の言葉を唱えることは偽善ではありません。この言葉は神を求める言葉であり、神だけが感謝と賛美にふさわしいお方であることを信じるという表現です。

1600年代の牧師、リチャード・バクスターの言葉を紹介します。ここに、私があなたにしていただきたいと思っていることが書かれています。

 神に感謝し、神を賛美することに多くの時間を費やすよう決意しなさい。喜びをもってそれを行うべきだが、もしできなくても、できる限りそれを行いなさい。あなたに自分自身の安らぎを支配する力がないとしても、舌を支配する力はあるはずだ。賛美の心があり、神の子どもでありながら、自分は感謝や賛美にそぐわないなどと言ってはいけない。いかなる人も、善い人も悪い人も、神を賛美し、自分の受けたものすべてに感謝しなければならない。それをしないままでいるより、できる限りそれを行いなさい。できる限り行うことが、上手くなる方法である。感謝は、心の中にある感謝を掻き立てる。

偽善的に行う必要はありません。つまり、心の痛みがあることをわかっていながら、あなたが感謝や賛美についての聖句を読み、神にそのことばを投げかけることは、決して偽善ではありません。

喜びの種

では最後のカテゴリーです。神にいのちと喜びを戻してくださいと叫び求める箇所を開きましょう。詩篇51篇12節「あなたの救いの喜びを私に戻し 仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。」 詩篇85篇6節「あなたは 帰って来て 私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民が あなたにあって喜ぶために。」

『重要なのは、人生には涙する時期があるということ、そしてその後には、クリスチャンである私たちには、喜びが待っているということです。』

これらの聖句を開いていただきたい理由は、ただ神があなたに答えてくださり、すぐにでもあなたの喜びを戻してくださるという祈りであるからだけではありません。神にある喜びの種があなたの魂の中にまだ生きていることを、この祈りが証明してくれるからです。

最後に一つ言っておきましょう。あなたは、「あまりに空虚に感じて、自分がクリスチャンなのかどうかもわからない」と思っておられるかもしれないので、今から言うことは非常に大切です。あなたの中に喜びの種がまだ生きていることを示す四つのポイントがあります。これらがあなたの中にあるかどうか確かめてください。

  1. あなたは、たとえ神に対する感情的な思いは非常に平坦なものであっても、神が宇宙の至上の宝であることを客観的に見ることができる。
  2. あなたは、その客観的な神の姿について、神が何よりも尊いお方であることを、客観的に口で告白することができる。
  3. あなたは、真の喜びの回復を叫び求めることができ、その叫びは喜びの味わいによって蒔かれた種である。
  4. あなたは、神から離れて偶像を愛することを、拒むことができる。

どうか、主がこれらの五つのカテゴリーの聖句を用いてくださり、あなたに忍耐を与え、暗闇の時期を乗り切らせてくださいますように。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, What Hope Does God Offer in My Depression?.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:What Hope Does God Offer in My Depression?