キリストはいつ私の身体を癒されますか

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2026年 08月 25日  - 

以下は、『Ask Pastor John(ジョン先生に聞く)』というポッドキャストの収録内容を文章に起こしたものです。

[トニー(ポッドキャスト進行役・以下、T)]今週取り扱うエピソードはあと二つ残っていますが、どちらも身体的な癒しに関する内容です。金曜日には、現代に行われている癒しのミニストリーを取り上げます。私たちは、このミニストリーを信頼してよいのでしょうか?もし避けるのだとしたら、それはこのミニストリーは人を騙しているだけだと考えるからでしょうか?それとも、私たちの不信仰のために癒しが得られないからでしょうか?

『神は、あなたの祈りに答えて、病気を癒すことができますし、今もそうされます。しかし神は、いつもそうされるのではないのです。』

[T]しかしその前に、今日は癒しのタイミングについて話しましょう。神はいつ、この人生における私たちの痛みを癒してくださるのでしょうか?そしてなぜ、キリストはご自身の地上の宣教においてごくわずかな人しか癒されなかったように見えるのでしょうか?少なくとも聖書を読む限り多くはありません。これらの質問に対して、ジョン・パイパー牧師の「キリストと癌」と題された説教の一部を聴きたいと思います。この説教は、ジョン先生が牧師として働き始めて間もないころに語られたものです。先生は当時牧師になって1ヶ月ほどしか経っていませんでしたが、死や癌、病気などについてすでに多くの身近な経験がありました。まずはジョン先生の証を聴いてみましょう。

大学に入る前、私は癌をはじめとするさまざまな末期疾患についてほとんど考えたことがありませんでした。しかし、ウィートンにある大学に進学するやいなや、私の非常に近い知り合いが二人、22歳になる前に亡くなったのです。一人は白血病で、もう一人は悪性リンパ腫でした。それから私はフラー神学校に進学しました。そこで一年も経たないうちに、組織神学の教授であったジム・モーガン先生が、消化管悪性腫瘍によってみるみるうちに弱り果てていき、亡くなってゆく様を目の当たりにしました。彼は36歳でした。

その後私はドイツに渡り、そこで3年間学びました。最後の半年、というときに、私のメンターであったゴッペルト教授が、地下鉄に向かう道中で重度の心臓発作で亡くなりました。そして、ベテル神学校に来て6年間教鞭を取りましたが、その間に事務スタッフや学生たち、教授たちが癌で亡くなるのを見届けました。スー・ポートさん、ポール・グリーリー教授、ボブ・バーグルードさん、ルース・ルードマン教授、グレイドン・ヘイル学長、チェット・リンジーさん、メアリ・エレン・カールソン教授です。彼らはみな、クリスチャンです。全員、70歳を迎える前に亡くなりました。そして今、私はベツレヘム(教会)に来て、ハーヴィー・リングさんが亡くなり、リストは長くなるばかりです。このようなことに対して、私たちはどう考えるべきなのでしょうか? 

私たちのための打ち傷

[T]悲しいことですね。ここで少し、先へ進みます。ジョン先生はこの説教の後半で、癒しについて語り始めます。私たちの癒しに対する約束と、そのタイミングについてです。続けて聴いてみましょう。

『今の時代に、イエスが今すぐあなたの回復を望んでおられると保証し、その奇跡を売り物にしている人々は、神の意図を歪曲する重大な罪を犯しています。』

やがては、すべての松葉杖が彫刻で飾られ、すべての車椅子が溶けて勲章に姿を変えるときが来ます。そのとき、メルリンさんやルベンさん、ジムさんやヘイゼルさん、ルツさんや、その他すべての人々が、天の御国で側転して駆け回り、喜ぶことでしょう。しかし、まだなのです。未だ、そのときではありません。その日は近づいています。これが、私の第二の宣言です。

三つ目に言えることは、イエス・キリストは死によってその贖いを買い取るため、霊と肉の両方の贖いのあり方を示すため、そして私たちにその前触れを与えるために、この世に来られたということです。さて、ここはよく気を付けて聞いてください。今日の多くの癒しを語る教師たちは、これからお話しする点において、神の目的の理解を誤り、神の意図を歪めてしまったと私は考えるからです。預言者イザヤは、イザヤ書53章5-6節でこのように言いました(この箇所はペテロが、ペテロの手紙第一2章24節で引用しクリスチャンに適用しています)。

彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を
彼に負わせた。

赦しの祝福も、癒しの祝福も、キリストの死によって買い取られたのです。それゆえ、キリストと結ばれ、キリストのために生きる人は両方の祝福を受けます。

わずかな人にしか与えられたかった癒し

しかし、いつでしょうか?この疑問こそが、現代の私たちの投げかけている疑問です。いつ、これらの祝福が完全なる力をもって与えられるのでしょうか?私たちの肉体が腐敗の奴隷でなくなるのは、いつなのでしょうか?福音書に記されているイエスの宣教は、癒しと赦しの宣教でした。例えば、バプテスマのヨハネの弟子たちが非常に困惑していたとき、イエスはこのように言っておられます。

『ただし誤解のないように、ここで強調しておかなければなりません。私たちは、前触れを得ているのです。贖いの前触れを、得ています。』

あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。

マタイ11:4-6

つまずく、とありますが、一体誰がつまずくというのでしょう?イエスは死人を生き返らせ、人々が長く待ち望んだ神の国をもたらしているのです。そのようなことができるお方に、一体誰がつまずくのでしょうか?簡単です。イエスはたった三人をよみがえらせ、何千人もの人々を墓に残されました。なぜでしょうか?死人を生き返らせるために来られたなら、なぜイエスは三人しか生き返らせなかったのでしょうか?他の人々の家族の信仰が足りなかったからですか?まさかそんなことはありません。

ルカの福音書7章で、イエスはやもめの息子を生き返らせました。このやもめはアダムから生まれたイエスのことを知りませんでした。イエスが誰なのか、知らなかったのです。イエスを見たこともありませんでした。聖書のどの箇所を見ても、少年が棺に入れられて町の門から担ぎ出されるところを見て、イエスが深くあわれみ……と記されているだけです。ではイエスは、イスラエル中の他のやもめをあわれんでくださらなかったのでしょうか?もちろんあわれまれたでしょう。

来るべき時代まで

イエスがわずかな人のみを生き返らせ、すべての人にその御業を行われなかったのは、ユダヤ人たちの期待に反して、メシアの最初の到来は贖いの完成のためでも、この堕落した時代の幕引きのためでもなかったからです。メシアの最初の到来は、その贖いを買い取るためであり、その肉と霊との贖いの性質を描き示し、私たちにその前触れを与えるためでした。イエスは再び来られます。そして今、私たちはイエスがいつ来られるのか、主の示してくださることばによって知っています。それは、すべての人が生き返り、すべての神の民に癒しがもたらされるときです。その日には、涙も痛みもありません。

『私たちは自分の肉体の贖いを待ち望み、うめきながら待っています。』

ただし誤解のないように、ここで強調しておかなければなりません。私たちは、前触れを得ているのです。贖いの前触れを、得ています。赦しと癒しの恩恵は本物です。神は、あなたの祈りに答えて、病気を癒すことができますし、今もそうされます。私の言うことが、神がその御業を行われないと解釈されてはいけません。しかし神は、いつもそうされるのではないのです。お分かりでしょうか?

今の時代に、イエスが今すぐあなたの回復を望んでおられると保証し、その奇跡を売り物にしている人々は、神の意図を歪曲する重大な罪を犯しています。彼らはこの堕落した時代における神の目的の本質を理解できていない、というのが私の考えです。彼らは、罪の深さ、罪のきよめという苦難の極めて重大な性質、そして苦難を通してもたらされる信仰の価値を過小評価し、神が来るべき時代まで待っておられる力の行使を、今の時代に持ち込もうとする罪を犯しているのです。

私たち自身のうめき

ローマ人への手紙8章23-24節で展開される思考に注目してください。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。」キリストが買い取られた贖いによって、私たちはすでに御霊を受けました。しかしそれは、初穂に過ぎません。頭金が支払われただけなのです。それは、贖いの前触れに過ぎません。ここでパウロが「私たち自身も、……心の中でうめいています」と強調するように、パウロはローマの人々に警告し、私たちにも、誤った推論に対する警告を与えているのが明らかです。

誤った推論とは、例えばこのようなものです。「私には聖霊が与えられています。全能の神が私の人生を支配しておられるのです。それではなぜ、私はなおも、この時代に縛られ続ける必要があるでしょうか。」パウロはこのような推論に反論しています。彼の言葉に、それは明らかです。「私たち自身も……心の中でうめいています。」私たちの肉体の贖いを、待って、待って、待ち続けています。この時代にあまりに多くの救いをもたらそうとしている者たちに、パウロは対抗しているのです。

そしてこの箇所にあるように、私たちは自分の肉体の贖いを待ち望み、うめきながら待っています。キリストは贖いを買い取られ、その贖いが肉と霊に対するものであることを示され、明らかにされました。そして、その栄光に輝く前触れを私たちに与えてくださったのです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, When Will Christ Heal My Body?.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:When Will Christ Heal My Body?