4月10日 第101日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 04月 10日 - この記事は約2分で読めます。
あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。 (ローマ人への手紙6:20-21)
あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
クリスチャンの目が開かれ、以前の自分が行っていた神を辱める悪が明るみに出たとき、当然それを恥ずかしく思うでしょう。パウロはローマの教会にこう言いました。「あなたがたは、罪の奴隷であったとき……どんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。」
神を蔑んでいたかつての生き方を適切に振り返り、そのうずくような痛みを適切に感じるには、どうすれば良いのでしょうか。当然、その悲しみの中に留まり動けなくなってしまってはいけません。しかし、敏感なクリスチャンの心を持っていれば、主とのあいだですべて解決していたとしても、若いときの愚かな行いを思い返し、恥ずかしく思わずにはいられないものです。
自分の罪を正しく恥じるなら、それは健全であり、救いをもたらします。パウロはテサロニケの人々にこう言いました。「もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです」(IIテサロニケ3:14)。つまり、恥ずかしく思うことは、回心において適切で救いをもたらすステップです。さらに、クリスチャンが霊的に冷めた状態や罪の時期から悔い改める際にも、同じことが言えます。恥ずかしく思うことは、絶対に避けるべきものではないということです。神がご自分の民を善の御手で取り扱われるところに、恥じることの適切な場所があるのです。
結論として、誤った恥ずかしさと、正しい恥ずかしさの聖書的基準は、根本的に神を中心とすべきです。
誤った恥ずかしさの聖書的基準は、たとえ人の目にはあなたが弱く、愚かで、間違っているように映っても、神を讃えるものを恥じてはいけないということです。または、この神を中心とした誤った恥ずかしさの基準を適用する別の方法として、自分が何らかの形で悪に加担していない限り、本当に恥ずべきことでも恥ずかしく思う必要はない、ということが言えます。
正しい恥ずかしさの聖書的基準としては、神を辱める行為に手を貸したならそれを恥と思わなければなりません。たとえ人の目から見て、あなたが強く、賢く、正しく映ったとしても、です。
私たちが恥ずかしく思う理由は、神を辱める行為を認めないからです。私たちが恥ずかしく思うべきでない理由は、たとえ人々があなたに恥をかかせようとしても、それが神を崇める行為であるからです。