自分のいのちを憎む

5月20日 第141日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 05月 20日  - 

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」

(ヨハネの福音書12:24-25)

「この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」 これはどういう意味でしょうか?

少なくとも、この世で自分の人生についてあまり考えないことでしょう。言い換えれば、この世で自分の人生に何が起ころうと、それはあまり重要ではないということです。

人があなたを褒めても、それはあまり重要ではありません。
人があなたを憎んでも、それはあまり重要ではありません。
多くの物を持っていても、それはあまり重要ではありません。
少ししか物を持っていなくても、それはあまり重要ではありません。
迫害されたり騙されたりしても、それはあまり重要ではありません。
あなたが有名でも無名でも、それはあまり重要ではありません。
キリストとともに死んだなら、これらのことは、あまり重要ではないのです。

しかし、イエスの言葉はさらに徹底しています。イエスは、私たちが選びもしない経験に耐えることではなく、イエスに従うことを選ぶよう求めておられます。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」(ヨハネ12:26)。どこへついて行くのでしょうか? イエスは、ゲッセマネへ、十字架に向かって進まれます。

イエスはただ、物事が上手くいかなくても思い悩むことはない、あなたはもう私とともに死んだのだから、と言っているのではありません。イエスは、私とともに死ぬことを選びなさい、私が十字架を選んだように、この世で自分のいのちを憎むことを選びなさい、と言っておられるのです。

イエスはその意味を込めて、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)と言われました。イエスは私たちに、十字架を選ぶよう求めておられます。人は十字架上で何ができるでしょうか。ただ死ぬことです。「十字架を負って」とは、「一粒の麦のように、地に落ちて死ぬこと」なのです。選んでください。

ではなぜ、それを選ぶのでしょうか? 徹底的に宣教にすべてを献げる約束をしたからです。「私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証する任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)。パウロがこう言うのが、聞こえるかのようです——「私に何が起ころうと、それは重要ではない。ただ神の恵みの栄光のために、生きることができるなら。」

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, How to Hate Your Life.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:How to Hate Your Life.