6月7日 第159日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 06月 07日 - この記事は約2分で読めます。
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 (ガラテヤ人への手紙2:20)
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
信仰は、神の将来の恵みに完全に適合します。恵みが自由ですべてを満たすものであることに、信仰が合致するのです。そして神の栄光に満ちた信頼性に注意を向けさせます。
この結論が意味する重要なことの一つとして、義と認める信仰と、聖とする信仰とは、別々の信仰ではないということです。「聖とする」とは、聖くされること、またはキリストに似た姿へと変容することを意味します。その経過はすべて恵みによるものです。
したがって、これもまた信仰によるものでなければなりません。信仰とは魂の行いであり、それは恵みと繋がり、恵みを受け、恵みを従順の力とし、人間的な誇りによって恵みが無効にならないよう恵みを守ることを指します。
パウロは、ガラテヤ人への手紙2章20節で信仰と聖化の繋がりを明確にしています(「私が……生きているいのちは、……信仰による」)。聖化は御霊によるもの、そして信仰によるものです。それは、恵みと信仰によるもの、と言うこともできます。御霊は「恵みの御霊」です(ヘブル10:29)。神は私たちを聖くするために御霊を用いられます。しかし、御霊は信仰によって、福音のうちに働くのです。
義と認める信仰と、聖とする信仰とが同じ信仰である単純な理由は、義認も聖化も、主権的な恵みのわざであるからです。そして、恵みに合致するのは信仰です。義認と聖化は同じ類のわざではありません(義認は義を転嫁すること、聖化は義を付与すること)。しかし、いずれも恵みのわざです。聖化も義認も、「恵みの上にさらに恵みを受け」ることなのです(ヨハネ1:16)。
神の無償の恵みの、人間的な帰結は、信仰です。義認と聖化の両方が恵みのわざであるなら、両方が信仰によるものであるのは当然です。