6月14日 第166日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 06月 14日 - この記事は約2分で読めます。
「まことに主は、あなたの父祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。」 (申命記30:9)
「まことに主は、あなたの父祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。」
神は私たちをいやいや祝福することはなさいません。神のいつくしみには熱心さがあります。神は、私たちが神のもとに行くのを待っておられません。私たちを探し求め、私たちのために善を行うことを喜びとされます。神は私たちを待っているのではなく、私たちを追い求めておられるのです。詩篇23篇6節を直訳すると、まさにその意味になります。「まことに 私のいのちの日の限り/いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。」
神は喜んであわれみを示すお方です。もう一度言いましょう。神は、喜んであわれみを示されます。神はご自分の民のために善を行う願いを、ためらったり、迷ったり、暫定的にしたりされません。神の怒りは堅固な安全装置によって解放されなければなりませんが、神のあわれみはすぐにも引き金が引かれます。シナイ山でモーセに語られた言葉も、そのことを意味していました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富[んでいる]」(出エジプト34:6)。エレミヤ書9章24節でも、神は同じことを語っておられます。「わたしは主であり、/地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。/まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。」
神は決して、怒りやすい、神経質なお方ではありません。神の怒りは絶対にかんしゃくのように起こりません。それどころか、ご自分の喜びを実現するために、完全に限りない熱意で、尽きることなくエネルギーを注がれるのです。
これは、私たちには容易に理解できません。なぜなら、私たちは毎日睡眠を取らなければ、活発に動くばかりか一日をやり過ごすこともできないからです。私たちの感情は常に揺れ動きます。私たちは退屈したり落胆したりする日もあれば、希望に満ちたりわくわくしたりする日もあります。
私たちは、ゴボゴボと音を立てて不規則に噴き出す、小さな間欠泉のようなものです。しかし神は、いわばナイアガラの滝のようなお方です。毎分18万6千トンもの水が断崖絶壁からしぶきを上げて流れ落ちていくのです。その光景を目の当たりにする人は、こう思うことでしょう——この水の勢いのまま何年も何年も続くはずがない——しかし、続くのです。
神はこの滝のように、私たちに善を行われます。神は決して疲れることがありません。私たちに善を行うことに退屈されることも絶対にないのです。神の恵みのナイアガラの滝は、終わりがありません。