6月17日 第169日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 06月 17日 - この記事は約2分で読めます。
「わたしが目を留める者、それは、/貧しい者、霊の砕かれた者、/わたしのことばにおののく者だ。」 (イザヤ書66:2)
「わたしが目を留める者、それは、/貧しい者、霊の砕かれた者、/わたしのことばにおののく者だ。」
正しい心の第一のしるしは、主のことばにおののくことです。
イザヤ書66章は、神に喜ばれる方法で礼拝する者と、喜ばれない方法で礼拝する者との問題を取り上げています。3節では、いけにえを携えてくる悪しき者について、「牛を屠る者が、人を打ち殺す者」としています。彼らのいけにえは、神の忌み嫌われるところであり、殺人と変わりないと言います。なぜでしょうか?
4節で、神はこのように説明しておられます。「わたしが呼んでもだれも答えず、/わたしが語りかけても聞かず」 彼らのいけにえを神が忌まわしく思われるのは、彼らが神の御声にまったく耳を傾けないからです。しかし、神が祈りを聞いた人々についてはどうでしょうか? 神は2節でこう言っておられます。「私が目を留める者、それは、/貧しい者、霊の砕かれた者、/わたしのことばにおののく者だ。」
この聖句から、私はこのように結論づけます。神が祈りを喜ばれる正しい者の第一のしるしは、彼らが神のことばにおののくことです。このような人に、神は目を留めてくださいます。
ですから、神に喜ばれる正しい人の祈りは、最初は神の御前で不安定に感じる心から生まれます。神のことばを聞いておののく祈りです。なぜなら、その祈りがあまりに神の理想からかけ離れ、神のさばきに太刀打ちできず、無力で、自分の失敗を悔いているからです。
これこそ、ダビデが詩篇51篇17節で言ったことです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。/打たれ 砕かれた心。/神よ あなたはそれを蔑まれません。」 神に受け入れられる祈りへの第一歩は、祈る者が砕かれ、へりくだることです。このような人は、神のことばにおののきます。