6月21日 第173日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 06月 21日 - この記事は約2分で読めます。
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 (ヨハネの福音書6:35)
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
この箇所から、私たちが気づくべきことは何でしょうか。それは、信仰の本質は、神がキリストにあって、私たちのためにあられるすべてに満足することです。
信仰をこのように定義すると、二つのことが強調されます。一つは、信仰が神中心であるということです。私たちを満足させる神の約束というだけではありません。信仰とは、神が私たちのために、キリストにあって、あられるすべてなのです。信仰は、キリストにある神を私たちの宝として愛し抱きます。それは、神が約束してくださった賜物以上のものであることを意味します。
信仰は、来るべき世の土地だけに希望を託すのではなく、そこに神がともにおられるという事実に希望を託します(黙示録21:3)。「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。/『見よ、神の幕屋が人々とともにある。/神は人々とともに住み、人々は神の民となる。/神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。』」
そして今においても、信仰が最も熱心に愛し抱くのは、罪が赦されたという現実だけでなく(それだけでも十分に尊いのですが)、生けるキリストの臨在が私たちの心にあること、そして神の満ちあふれる豊かさです。エペソ人への手紙3章17-19節で、パウロはこのように祈っています。「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、……神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」
信仰を、「神がキリストにあって私たちのためにあられるすべてに満足すること」と定義することで強調されるもう一つのことは、「満足」という言葉です。信仰とは、神の泉のそばで覚える魂の渇きです。ヨハネの福音書6章35節から、「信じる」ことはイエスのもとに「来[て]」、「いのちのパン」と「生ける水」を飲むことであるとわかります(ヨハネ4:10, 14)。このパンと水は、イエスご自身に他なりません。
あなたを捕える罪の魅惑的な力を打ち砕く、信仰の力の秘密がここにあります。もし心が、神がキリストにあって私たちのためにあられるすべてに満足するなら、キリストの知恵から私たちを誘惑し引き離そうとする罪の力は、すでに打ち砕かれています。