6月24日 第176日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 06月 24日 - この記事は約2分で読めます。
私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。 (ピリピ人への手紙4:11-13)
私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
神が日々与えてくださる将来の恵みによって、パウロは、満ち足りることにも飢えることにも、栄えることにも苦しむことにも、富むことにも欠乏することにも、対処することができました。
「私はどんなことでもできる」とは、簡単なことだけでなく「どんなことも」できるという意味です。「どんなことも」とは、「キリストによって、私は飢えることも苦しむことも乏しくなることもできる」という意味です。これによって、ピリピ人への手紙4章19節の驚くべき約束が正しく解釈されます。「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
では、ピリピ人への手紙4章11-13節の視点から見ると、「すべて」の「あなたがたの必要」とは何を意味するのでしょうか? それは、「神に栄光を帰す満足のために必要なすべてのもの」です。そこには、飢えや欠乏のときも含まれるでしょう。パウロの抱くピリピの人々への愛は、神にある満足から流れ出ていました。そしてその満足は、富むときも乏しいときも、必要を必ずすべて備えてくださる神の将来の恵みを信じる信仰から流れ出ているのです。
ですから、貪欲が信仰と正反対であることは明らかです。貪欲とは、キリストに満足していないために、本来神の臨在だけが満たすことのできる心の求めを、他のもので満たそうと渇望し始めることです。そして、貪欲との戦いは、間違いなく、あらゆる状況において私たちに必要なすべてである神の約束を信じない不信仰との戦いです。
このことは、ヘブル人への手紙13章5節に明確に記されています。この手紙の著者が、金銭に対する愛からの自由、すなわち貪欲からの自由、神に満足することの自由を訴えています。「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。」 「あなたを決して見放さない」というこの約束を信じる信仰は、神を蔑むすべての欲望、すべての貪欲の力を打ち砕きます。
心にわずかでも貪欲な思いが湧き上がってくるのを感じたら、すぐに対抗し、この信仰の武器を使って力一杯戦わなければなりません。